1008 バラサン岬=厚岸郡厚岸町愛冠(北海道)史跡国泰寺とくっついて厚岸漁港の南端にある絶壁の岬 [岬めぐり]
前項の指のたとえでいうと、親指の左先がバラサン岬にあたる。国土地理院の地図では、たまにここのように岬名がふたつも表示してあるところがあるが、これにはなにか意味があるのだろうか。
厚岸大橋を渡って、厚岸湾の側に行くとそこは大きくて広い厚岸漁港に沿う町並みであり、厚岸湖の側の湖岸は、カキ養殖のための基地となっている船着場のような、桟橋のようなぎざぎざがこまごま続いている。ちょうど始まったカキのシーズンに開かれる厚岸の牡蛎祭りのイベントは、このぎざぎざの海岸線にある子野日公園周辺で催される。以前に厚岸に来たときは、ちょうどなにか中毒か何か事故があって、厚岸のカキが出荷できない状況になっていたときだった。タクシーの運転手さんの話だと、いつも道外からも大勢の人がやってくるというので、今年も賑わったことだろう。
地図をよく見ると、この親指の左と右、厚岸大橋の東西で、まったく対照的な海岸線を描いているのが、とても印象的でおもしろいのだ。
バラサン岬は、大きな四角が直線で形作られている湾側、厚岸漁港のいちばん南の端に位置している。
あまりきれいとは言えない浜辺から、いきなり立ち上がる岩の壁が、下から見上げる者を威圧するようだが、あいにくの霧で周囲はすべてぼやーっとしている。その下に転がっている石の佇まいも、いかにも不安定なようだ。
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国泰寺は、そのバラサン岬の出っ張りの陰に守られている。赤い掛け物をした地蔵が並ぶ境内にはサクラの木が茂り、そのなかには随分と古い樹齢をかさねてきたものもある。
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国泰寺は、1804(文化元)年に蝦夷三官寺のひとつとして、ここに置かれた。1800年代の初めに、江戸幕府が積極的に推進した蝦夷三官寺は、西から胆振国有珠郡(伊達市)の浄土宗善光寺、日高国様似郡(様似町)の天台宗等澍院と、ここ厚岸の臨済宗国泰寺は、幕府の“政教一致”の蝦夷政策のなかで、“本土化”を推進する目的のためであったろう。一方では、進出をはかるロシアに対抗するためでもあり、とくにアイヌがロシアからの信仰を糸口にした影響を受けるのを防ぎたいという狙いがあったといわれている。
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境内には、アイヌのための慰霊碑がぽつんと立っているが、長い間に渡ってアイヌ民族が受けることになった辛酸を語るものでもあろう。
国泰寺と並び建つ厚岸神社は、最上徳内が建てた神明社の後身といわれる。最上徳内は、間宮林蔵や伊能忠敬や、あるいは大黒屋光太夫ほど知られてはいない。探検家として何度も蝦夷地を歩いているが、ある意味幕府の縛りの範囲を出られなかったともいえる。
その最上徳内が神明社を建てたのも、国泰寺と並んでアイヌの教化を計るというのが目的であった。“教化”など、される側に立ってみれば、これほど迷惑なものはないだろう。
神社の脇から山に向かう道があって、それを上ると愛冠(あいかっぷ)岬に至る。バラサン岬の所在地は愛冠で、国泰寺の前の平地は湾月。その付近は昔はずっと広い入江が東に入り込んでいただろう。月の形のような湾が、できていたのかもしれない。
漢字の名前はそれから意味を推し量ることもできるが、アイヌ語源は、そうはいかない。その意味を聞いても、なるほどなあというものと、いくら追求してみてもあまり判然としないものがある。「バラサン」とは、アイヌ語の「広い柵」だといわれても、なんだかピンとこない。
国泰寺跡の一角には「狭い柵」がしてあって、“アッケシソウ”の札が立ててある。おおこれがそうか、と思ってみると、岬の浜にあった花のなかに混じって生えていたのと、なんか似ているなあ。
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この右手の端っこに、ちょこんと出ているはずの愛冠岬は、「009 愛冠岬」 という若い項目番号で収録している。2005年に旅行会社のツアーに参加して訪問していて、このブログでもまだ形が定まらぬ初期のデータで記録されていた。
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