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番外:釧路 石川啄木の76日=啄木通りなど(北海道)いまひとつ問題の多い困ったチャンというべきなのかもしれないよ [番外]

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 釧路埼灯台からまた南大通りに戻って、米町の展望台がある公園の高台に上ってみる。この展望台のほうが、釧路埼灯台よりもはるかに灯台らしいのがおかしいが、釧路の町と港を見下ろす高台には、なにやらいくつもの石碑が建っている。そのひとつ黒いのは虚子の句碑で、平成13年8月建立というできたてほやほや。昭和8年に、釧路の知人岬に立って詠める句は、「燈台は 低く霧笛は 峙(そばだ)てり」というものであった。
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 隣奥の白くて大きいのが啄木の歌碑で、「しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな」という『一握の砂』なかから選ばれた歌である。だが、読解力に不足があるでんでんむしには、いまひとつ感じるもののない平凡な歌としか思えない。
 この碑が建てられたのは、啄木生誕50年の1934(昭和9)年(没後12年)のことで、いくつもある釧路の啄木歌碑のなかではいちばん早く、全国でも6番目だったという。また、この知人岬という場所を選んだのは林芙美子であると、石碑の傍らに説明があった。関係はないが、この碑の隣奥にある家は、細川たかし「望郷じょんから」の作詞家、里村氏の事務所である。
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 石川啄木の歌は、嫌いではない。どちらかというと好きである。でんでんむしが啄木の歌をよく読んだのは、高校生の頃だった。好きな歌をあげろとかいうのがいちばん困るが、中学くらいのときには、やはり有名どころに馴染み、高校になるとそういうのではないのに興味が移っていく。そこで、当時気に入っていたのは歌ではなく『家』という題の詩であった。
 その全文は、青空文庫にもあるので、そちらを探してもらえばよいが、ごく簡単に言えば、啄木が憧れつつもついに得られなかった、小市民プチブル的マイホーム・ソングのようなものだ。でんでんむしも、その頃、そういうものに憧れる心境に共感する下地がたっぷりあったように思える。
 
  さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
  夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
  音立てて降るこころよさ。
  またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
  白塗の木の腰掛を根に置かむ--
  雨降らぬ日は其処に出て、
  かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、
  四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
  本の頁を切りかけて、
  食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
  また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
  村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

 その中間を抜粋すればこんな感じなのだが、「本の頁を切る」という意味を、この詩で初めて知ったものだ。
 これまでの岬めぐりでも啄木の足跡とそれを記念する歌碑の類いについては、「490 大間崎=下北郡大間町大字大間(青森県)本州最北端で歌碑の可否を問う(あえて駄洒落) などでも取りあげていた。それよりも、湯島にいて本郷界隈を歩き回ったときのほうが、本郷弓町で寄宿した散髪屋や、朝日新聞の校正係の仕事に通う湯島切通坂のことで、啄木についてはいろいろ書いたことがある。だが、啄木ファンでもマニアでもないし、ましてや研究家でもないので、その個人の事跡のことごとにさほど興味があるわけではない。
 だが、釧路に来て米町から啄木通りを歩いてみると、やはり彼のこの町での76日間の生活について、考えてみなければならなくなってしまう。
 そう。啄木が釧路に滞在したのは、たったの76日間でしかないのだ。
 たった76日間の縁でしかないそれなのに、地元釧路の人々の啄木への思い入れの深さと、その好意に満ちた表し方は、いったいなんだろう。もちろん、町おこしに使えるものは使おうという魂胆もおおいにあるだろうが、それがどの程度の恩恵を釧路にもたらしているのか。
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 乗ったバスが“たくぼく線”で、それが走る南大通りは“啄木通り”という名もあり、通りにも公園にも啄木の歌碑があり、街路灯にはことごとく啄木の顔と有名な歌を入れた幟がぶら下がって小雨に濡れている。
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 ぽつぽつする小雨の、人影もない薄暗くなりかけの夕暮れという逢魔が時の情景は、住宅街でも商店街でもない中途半端なさびしい啄木通りのうら悲しさをいや増す感じがする。歩いているうちに、関係ないこちらまで申し訳ないような悲しさと侘びしさがわき上がってきて、どうしょうもなく居心地の悪いような妙な気分になってしまった。
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 釧路川のフィッシャーマンズワーフの向かいになる左岸には、彼の勤めていた釧路新聞社の建物が復元され、その前には大きな啄木の銅像と、その釧路時代の恋人だったという芸者の揮毫になる歌碑があり、その近くのバス停にはその芸者の名前までつけられている。だが、とうとうそんな銅像なんぞは見る気さえなくなってしまい、小奴の碑から港文館は素通りし、幣舞橋を渡ってホテルに戻ってしまった。
 釧路新聞社の記者の職を得て、啄木が小樽から単身赴任で釧路にやってきたのは、1908(明治41)年1月21日夜のことであった。断っておかなければならないが、ここでいう「釧路新聞社」とは、現在の釧路新聞社ではなく、北海道新聞社(道新)の前身となった新聞社のことである。
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 当時の鉄道は釧路が終着駅であったから、まだ根室本線ではなく、駅も現在の釧路駅からは南西に500メートルもずれていた。ちょうど、今回泊まった釧路プリンスホテルの北、こども遊学館と公園のある付近が、その場所だったのではなかろうか。

 さいはての 駅に下りたち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りたき
 
 「しらしらと…」よりも、この歌のほうがいくらかいいと思うけど、“さびしき町に”というのが、釧路の人には気に入らないだろうか。啄木通りの公園に、この歌碑があった。
 釧路新聞社があったのも釧路川左岸であるから、どうやら当時の釧路の町の中心は、南大通りから南埠頭方面にかけてのほうだったのではなかったか、と想像できる。
 釧路では、結構仕事もこなしたようだが、妻子を小樽においてきた気軽さからか酒を覚え芸者遊びも覚え、小奴という芸妓とはいまでいう不倫関係?になる。それだけでなく、あいかわらずお金にはルーズでいつも困っていて、小奴などに無心をしていたようだ。
 そもそも、なぜに啄木は小樽から釧路に流れてこなければならなかったのか。函館を大火で追われ、札幌を経て小樽では小樽日報という新しい新聞社に野口雨情と同期で入社し、社会面の担当記者となる。だが、主筆と意見が対立して排斥運動などもあり、そういう社内のごたごたに巻き込まれた、というより重要な当事者の一人であったらしい。雨情は2週間足らずでさっさと辞めてしまうが、残った啄木も80日後には事務長から暴力を受けたとして退社。
 
 かなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき 人人の 声の荒さよ
 
 そうして釧路に新たな職場を得るのだが、実は小樽日報と釧路新聞は社長も同じ系列であったようだ。だから、小樽から釧路への職場換えも、なんらかの配慮がなされた結果だったはずだろう。そうして、次の仕事探しもスムーズに運んだのだろう。ところが、当の本人にはそういう自覚もなかったらしい。
 釧路ではひとり不平不満の塊となっていく。「急に心地が悪い。不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になつた。」「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。」などという文句が、この頃の日記を埋め尽くしているのだ。

 こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ

 これは釧路時代の歌かどうか未確認だが、背景としては新聞記者の仕事に飽き足りない思いから生まれたものに違いない。いかにもかっこよさげな歌だが、釧路時代の彼のことを知ると、かっこ良くなくなる。「あれ」というのは満たされていない願望だから、彼にとっては、記者は「こころよく (我に)はたらく 仕事」ではなかったのだ。だから、気分で仕事を休んだりも平気でしている。
 社長から生活の自堕落さなどを意見されて、不満は勝手に増幅され、逆に諌言してくれる周囲の人々を逆恨みするようになってしまう。好意的に言えば、その背景には強い文学への憧れと、東京へ出てそれで一本立ちしたいという欲求が膨らんでいたのだろう。
 
 気の変る 人に仕へて つくづくと わが世がいやに なりにけるかな
 
 この歌も、前後の関係からみると小樽と釧路の時代のことだろう。それは社長だからといって上司だからといって、いい人やりやすい人ばかりではない。サラリーマンはみんな、そういう環境に耐えながら仕事をしている。
 自分はこんなことをやっている人間ではない、もっと高い理想があるのだからといって、社会人としてのルールや常識を逸脱していいというものでもあるまい。状況証拠的には、けっこう自己中のあまちゃんでもあるようで、あまり友達にしたいような人間像ではない。
 確かに才能はあるし、歌もいい。“漂泊の歌人”とか“ロマン”などといってもちあげるのもいいが、たった76日しかいなかった釧路でも、彼に迷惑を被った人は少なくはなかったのではあるまいか。
 へそまがりは、そっちのほうも気になるのである。
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 結局、雨情が残した小奴の証言によれば、「その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。」と“夜逃げ”をしてしまうことになる。それも、旅費が払えないから貨物船に便乗して宮古へ行くことになるわけで、積み荷の関係で出航が何日がずれ込むというかっこ悪いおまけつきで…。
 彼と小樽日報で同期だった野口雨情は、没後20年頃に書いた『石川啄木と小奴』のなかで、非常に都合のいいとも思える理解を示してはいるが、それは彼自身が啄木と同類であったからに過ぎない…のではないか。やっぱり、そうとしか思えない。
 
 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚(きたん)なく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰しかいの如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。
 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。
(青空文庫)

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
42.980089, 144.382446
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dendenmushi.gif北海道地方(2013/09/03訪問)

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タグ:北海道
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コメント 2

【みなと】

こんにちは。
石川啄木の短歌は大好きですが,ご本人はかなりやんちゃな方だったようですね。
by 【みなと】 (2013-09-21 16:10) 

dendenmushi

@ 【みなと】さんも、ですか。やはり啄木のファンは多いですよね。それだけに、こういう辛口コラムは書きにくいのですが…。
井上ひさしは「泣き虫なまいき」といっていますけど、それも一面を表しているのでしょう。
by dendenmushi (2013-09-22 06:17) 

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