975 大森崎=本吉郡南三陸町志津川(宮城県)志津川の町並みもなくなってしまい鉄骨だけになった防災庁舎が… [岬めぐり]
大森崎とは、志津川の町の中心があったところの東に張り出した、大森の低い山の南端をいう。最高点でも100メートルに満たない山が終わるところには岩礁があり、その先で荒島(あれしま)につながっている。
大森崎自体は、今ではその上にバイパス道路が坂になってカーブしているので、ほとんど目立たないのだが、荒島は遠くからもよく見え、大森崎の目印になっている。橋の下は漁港の岸壁につながっていて、そこには流された東屋の跡が白く丸く残されていた。
ホテル観洋からもそれは見えていたのだが、逆もまたしかりで大森崎のバイパスの上からは、荒島の向こう正面の弁天崎には、白い大きな塊となって、これはもう目立っているという程度のものではなく、大きく迫っている。
弁天崎と荒島の間に挟まれた小さなへこみに面して、旧志津川町の町があり、そこが2005年の合併で歌津町と合併して南三陸町となってからも、町役場はここにあった。八幡川の河口付近のここらが、歌津を含めて町の中心だったのだ。
東側に大森崎の山と荒島を見ながら、町民バスが水尻川を渡ると、志津川駅前で停車する。前のバスから高校生らが数人降りて行くが、これはBRTに乗り換えるというよりも、その向こうの高台にある志津川高校に通う生徒たちなのだろう。
駅前といっても駅も何もなく、ただ線路があった土手があるだけのこの場所は、町の西の端であった。しかし、東側をみても一面の空き地となっていて、ところどころに残骸となって残った建物や骨格と、それに箱のようなプレハブと車が散らばっているだけで、かつての町の面影はどこにもない。
赤茶けた骨格だけが残った、町の防災拠点だった町の庁舎がぽつんとある。これは、新聞などでも当時よく見たことがあるが、ここにある話を世田谷区長の保坂展人さんが、2013年3月12日の朝日新聞DIGITALに書いている。
それによると、佐藤仁町長など数人は、この建物の屋上にあるアンテナによじ登りしがみついて、全身ずぶ濡れになりながら、雪が降る寒さのなかで、一人が持っていたライターでなんとか火を焚いて一命をとりとめたというのだ。
この建物でも42名、付近でも多くの人命が失われているので、遺族などに配慮していったんはこれを解体と決めたものの、震災遺構として後世に伝え残すべきとの声もあり、まだどうするか結論は出ていない、というところなのだろう。
こういう話は、被災地のあちこちに似たような話があるようだ。確かに、それを見るたびに忌まわしい記憶が呼び覚まされて苦しいという人もあるだろうが、全部キレイにしてしまって何事もなかったような顔にしてしまうのが最善とも思えない。
「973 松崎」の項について、「きた!みた!印」常連のハマコウさんからコメントをもらっていた。そのなかで現地に公務員派遣で行っている知人からの手紙としてご紹介いただいた文言が、自分が見てきた風景と反応して、ほんとにそうだなと思う。
「まちの様子が どんどん変わっていってしまっている みるのは辛いことだけれども 災害の様子を知ることができるのは 今年くらいまでではないか」
ここでもがれき処理も進み、次の町づくりをどうするかという課題に焦点は移っているようだ。かつての町の跡が、家の土台やコンクリートのたたきなどだけしか残っていない、どこまでも平たく整地されたなかで、しかし区画だけはしっかりとなにかの形で示そうとしている地面が続く。その間を走る町民バスから眺めているうち、ひとつひとつのそこに暮らしていた人々のことを考えてしまう…。
バス(ワゴン車)は、やがてそこを離れると、山の中を迂回するようにして南端で大森崎に連なる高台に登って行った。
そこには、立派な家が並ぶ住宅地が広がり、その先には大きなガラス張りの建物があり、その下にテント張りのボランティアセンターや移転してきた役場や病院や保育所などが集まっている。
ここが、町民バスの終点になる、“ベイサイドアリーナ”であった。
大森崎へは、ここから広い道路を1.2キロほど南へ歩いて下って行かなければならない。コインロッカー? そんなものあるような風景ではない。なにしろ、トイレだって工事現場にあるような仮設なのだから…。
荷物を担いで、震災の跡だろうか数メートルおきに道路にひびがある歩道を下って、また引き返して登ってくることになった。 今さらのように気がついたが、この電子国土の地図は2011年3月以前のものである。この地図で“スポーツ交流村”とあるところが、ベイからは遠い “ベイサイドアリーナ”なのであった。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
38.671632, 141.463323
東北地方(2013/07/03訪問)
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