930 サカケノ鼻=瀬戸内市牛窓町鹿忍(岡山県)「源平合戦の弓が流れ着いたから矢寄ヶ浜」説にはバツで異説のほうにマル [岬めぐり]
蓬崎とサカケノ鼻の間は、500メートルしか離れていない。サカケノ鼻は山道を下って矢寄ヶ浜へ向かうところから近くに見えるかと思ったが、これがうまくいかず、結局は帰り道の車窓から、砂浜の向こうにやっとはっきりすることになった。
岬の付け根の広い敷地に、なにか工場のような建物群が建っているが、これは岡山県の水産研究所であるという。
サカケノ鼻は、こうしてみるとそう大きなものではなく、せいぜい20メートルほどの崖でしかない。
やはり、牛窓港からの遠望で、蓬崎とサカケノ鼻が見えるとしていたのは、間違いであったらしい。蓬崎のほうは、白い小さな灯台というはっきりした目印と特徴を備えているので、これは間違いない。
ところが、サカケノ鼻だと思っていた岬の影は、こうして近くで見るサカケノ鼻の大きさとまったく違うのだ。改めて、いちばん東寄りの牛窓天神の境内から撮った遠望写真と比べてみると、大きさの違いは明確になる。
これでは、遠望では蓬崎と城ヶ鼻の間にサカケノ鼻は挟まれて、ほとんどその存在もわからない。サカケノ鼻だと思っていた岬は、どうやら次の項で取りあげる城ヶ鼻だったのだ。
矢寄ヶ浜は、矢寄、浜、西脇という牛窓町鹿忍(かしの)地区の三つの集落にまたがって伸びる1キロほどのきれいな砂浜である。昔は、夏には海水浴で賑わったものだと、こどもたちが降りていって空になった車で引き返すときに、バスの運転手さんが話してくれた。
海水浴場は西脇の名で呼ばれているが、その説明がまた「源平合戦の弓が流れ着いたといわれる矢寄ヶ浜にあるビーチ。遠浅の浜が400mほど続き、波も穏やかなため、家族連れでも安心して楽しめる。海の向こうに屋島や小豆島が望める」といった、異口同音にほぼ同じような表現の情報がいくつもぞろぞろとある。
ここが肝心なとこだが、そもそも「弓が流れ着いた」のに、なんで「矢寄り」になるのじゃ?
ここが肝心なとこだが、そもそも「弓が流れ着いた」のに、なんで「矢寄り」になるのじゃ?
コピペ情報らしいが、どこがソースなのか、その大元を確かめることはできなかった。
確かに、矢寄ヶ浜の正面には小豆島が目立っている。この浜と正面の島の間には岡山県と香川県の県境がある。だが、屋島までとなると、ちょっとそれは疑わしいような気もする。けれども、条件が揃えばありえないことでもないのか?
屋島はもともとは島だったが、現在ではほとんど高松市とくっついた大きな出っ張りとなっている。そのテーブル状の形状には特徴があるので、角度と方向によっては遠くからでも識別できないことはないが、ここ矢寄ヶ浜からでは北正面からになるし、おまけに途中に小豆島のほかに豊島など多くの島が挟まっているので、屋島を識別するのはやはりちょっとムリではないか。
“源平合戦の弓が流れ着いた”というのは伝説だから、真偽の確かめようもないが、なかには“那須与一の放った矢が…”とする情報もある。こうなると、たとえ伝説といえども、デタラメ感が増すばかりだ。
こういう伝説には、ちゃんと異説もあるから、話はおもしろい。
蓬崎の項でふれた、岡山大学付属臨海実験所の北方600メートルにある鹿忍(かしの)神社は、鹿忍荘内五か村の産土の神として祀られている。その由緒には、次のような文言がああったのである。
山田彦命は猿田彦命の第二王子であり。中臣連時風秀行を供として、夜々鹿に乗り竿濱千斬稲津崎之星の如く遷らせ給ひ、異賊を退治し給う、この時矢が多く流れてその矢は明神の北の山に埋め矢塚と言う。宮山を鹿歩山と申し地名を鹿忍と名付けられた。また、竿濱を矢寄ケ浜と呼び、岡を星ケ岡、宮前、飯田、御供田、神楽田、勝負田、鹿伏、稲津崎、舛原、米倉などの字名が伝わっている。
(ただしこのページに記載の緯度経度、34.3650,134.0834 の数値では、高松市の屋島沖に鹿忍神社があることになってしまう。)
源平合戦よりは、こっちのほうが矢が流れきた情景としては、信憑性はともかく、つじつまも合っていてよりしっくりすると思うのは、へそまがりでんでんむしのみであろうか。
なにより、現在の住所表示にも残っている“鹿忍”の名の由来をも明確に示しており、竿濱という矢寄ケ浜の旧名まで明らかにしている。
「星ケ岡、宮前、飯田、御供田、神楽田、勝負田、鹿伏、稲津崎、舛原、米倉などの字名」は、旧字名をいくらか残している国土地理院の地図でも見つけることができなかった。
まことに残念なことながら、長く古い地名を常におろそかに扱ってきた、そのツケは明らかである。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
34.59694, 134.133756
中国地方(2013/02/06訪問)
タグ:岡山県
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