893 波津城=遠賀郡岡垣町波津(福岡県)見渡す限り絶え間ない波また波が押し寄せる海岸には松原遠く [岬めぐり]
鐘ノ岬から東西に続く海岸線の、東の端にあたる場所が波津城である。海岸線は、ここで45度向きを変えるのだが、そこでひねり上げた角のように飛び出しているところに、国土地理院の電子国土地図ではその名を表記している。
岬でも崎でも鼻でもない「城」なのだが、ここでは岬に準じた表記法で「波津城」とあるので、これも岬として項目にあげることにした。宗像市との境界にある黒崎鼻を除けば、岡垣町では岬らしいのはここだけである。
波津城というお城でもあったのかと思えば、古城を多く列挙してある『筑前国続風土記』にもその名はない。岬の山にはお決まりの神社があるものの、なにかこの地にかかわる謂われのようなものはなさそうだ。“波津”の名も、この付近の海岸を歩いてみれば、見渡す限り絶え間ない波また波で、いかにもふさわしい。
黒崎鼻からすっと続いている道路のすぐ下に打ち寄せる波は、波津城に近いあたりでは風にもあおられた波しぶきが、歩道にまであがっている。寄せては返す波のタイミングを横目で見ながら、小走りに走り抜けなければ、かぶってしまうようなところもあった。
響灘に北面しているこの地域では、北から強い風が止み間なく吹き付けている。この強い風が海面のうねりを押し上げ、その波を求めてやってくる人もある。道路脇には何台もの車が停めてあって、ウエットスーツを脱いで着替えたりしている。もう波乗りに適した時間は過ぎたのか、海の中には人の姿は見られなかった。
この波津城の波は、上級者向けなのだろうか。もっと南のほうでは、砂浜の海岸の波にたくさんの黒い頭が浮かんだり沈んだりしているのがバスの車窓から見えた。
この出っ張りの南には、波津の集落と波津漁港がある。漁港の南端から東に延びていく砂浜は波津海岸。そのさらに東は、新松原海岸、三里松原と続き、遠賀川河口の芦屋に至る。
西の宗像市との境界は、湯川山から城山まで、宗像四塚と呼ばれる300〜400メートルくらいの山々とそれをつなぐいくつかの峠が連なる。町の真ん中を流れる汐入川と矢矧川の流域に平地が広がり、東の遠賀町と芦屋町の境界は低い山がつくる。ウミガメがくるという北の三里松原は、海岸線の内側に丘陵地帯が幅広く展開している。
響灘に面して長い海岸線をもつこの町が、遠賀郡岡垣町。人口3万ちょっとのこの町は、北九州市で働く人々のベッドタウンで、ブドウやミカンやビワなどの果樹栽培が目立つくらいで、大きな産業もないようだ。これまでほとんど知らなかった「岡垣」という名前が、どこから出てきたのか。明治の終わり頃に遠賀郡の岡県村と矢矧村が合併して、このとき岡垣村となって以来この名なのだが、“垣”はなに…?。
そんな疑問があったので、コミュニティバスとは別に海老津駅〜波津の路線を運行する西鉄バスが、田畑の周りを取り囲む帯のように横たわる丘の中にある病院まで入って行くのを見て、これが“岡垣”なのか、と思ったがとくにそうだと言い切るほどの情報はなにもない。
この海岸の丘陵の風景も、長い間に川の堆積と風と波浪がつくりだしたものだろうが、ここに防砂林として松の植林が始まったのは1655(明暦1)年からという。古く長い歴史をもつ松原は、戦後は開墾開発、払い下げ、米軍射爆場など、いくつもの松原を脅かす試練のたびにこれに抵抗して乗り越え守ってきた。
そんな歴史を知ると、やっぱり三里松原の丘陵地帯こそが岡垣そのものなのだ、という感じも強くなる。
地域の人々の地元への愛着は、流行の町村合併にも否定的で、2004年には遠賀郡4町の合併を問う住民投票で、岡垣町は反対多数であった。だから、村は町になったが、明治以来の町の枠組みを変えることなくやってきた。
だが、海老津駅の周辺ではデパートが撤退し、商業の中心が宗像市の赤間へ移るなど、空洞化も進み、依然として合併問題はいくつものプランの間で揺れ動いているようだ。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33.890938, 130.563813
九州地方(2012/10/29訪問)
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