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番外:志賀島=福岡市東区(福岡県)「金印の島」には実は古い長い歴史があり龍神族の栄えた場所だった [番外]

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 志賀島は、1971(昭和46)年に福岡市に編入される前までは、糟屋郡志賀町であった。周囲が約11キロ、面積は約5平方キロの志賀島は、最高点が169メートルで、ほぼ100メートル前後のでこぼこが、全島をつくっている。遠くから見ると、平べったい島に見える。
 海の中道から大岳を経て延びる砂州で、島が九州本土とつながっている、いわゆる陸繋島で、似たような例には函館とか、男鹿半島とか、江ノ島とか、潮岬とかいくつもあるので、ウィキペディアがいうように(また、それをコピペしている多くのページのように)“全国的にも非常に珍しい”というほどではあるまい。
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 志賀島がいつ頃陸続きになったのか、大昔からそうだったのか、近世にそうなったのか、調べようとしたが、これがよくわからない。函館や潮岬では、長い年月の間にその砂州の上に市街地が発達するほどになったが、砂州の形成発達過程でいうと、志賀島は江ノ島に近く、現在では干満や嵐などによっては潮が越えていくような砂州の上に、橋が架けられて繋がっている。
 外周道路のほかには、そのでこぼこの間を縫うようにして細い道路が通っているので、島内各所の往来は、盛んに行なわれてきたようだ。字地名では島の南部が志賀島、西の一部が弘、北の大部分(島の三分の二相当)が勝馬となっていて、それぞれに集落が分かれつつ三か所に固まっている。
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 休暇村の前を早朝に出る路線バスに乗って、終点の勝馬まで行ってみた。三つの集落のうち、ここだけは海岸ではなく、緩やかな傾斜の谷が開けた山側に発達している。漁港を持たないのも勝馬だけで、それというのも、島の北側は玄界灘の荒磯であり、港に適した地の利を得ない。そのかわり、果樹やイチゴなどの栽培が主な産業で、舞能ノ浜(神功皇后の出兵の際に舞を奉納したという)を中心とする海岸は、赤瀬や黒瀬といった岩礁の荒磯の景勝が、数軒の旅館もある。また、古事記には「勝間」とある勝馬の地名や、下馬ヶ浜の名も、神功皇后の三韓征伐にかかわる伝説からきている。
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 折り返しのバスに乗り会わせた地元の人が、いろいろ教えてくれる。
 「ほら、あれもそう。これも古墳ですよ。勝馬の人口は、縄文時代のほうが今よりずっと多かったんですよ」
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 その人の話によると、どうやら志賀島の古代を支配していた勢力の中心拠点が勝馬であったらしい。そこで、ここを結ぶ島内道路は、その当時から発達していたのだろうと推測できる。
 志賀島資料館にも、縄文時代後期の細型銅剣の鋳型や古墳時代前期の箱式石棺が発見されたとの掲示とともに、「志賀島は古来“龍の都”と呼ばれていた」こと、「龍をシンボルとする龍神族(海神にかかわる豪族)の根拠地」であった、としている。勝馬を中心に勢力をもっていた龍神族に深いつながりがありそうなのが、島の南にある志賀海神社である。この神社は海神である綿津見三神を祀り、ここがなんと全国の綿津見神社の総本宮であるという。
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 玄界灘の外海に面する島の東海岸は、荒涼とした感じが漂い、それだけ海神の領域に近いことを感じさせる。
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 また、万葉集には志賀島の歌が23首もあり、島内には10くらいもの歌碑がある。そのうち3首の歌碑は勝馬にあるそうだ。資料館にもその歌碑の掲示があったが、でんでんむしとしては、やはり岬にからんでいないと…。
 ありました。岬の歌の歌碑が、志賀海神社の境内にちゃんとね…。
  ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神
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 古代の航海では大いなる難所とされた鐘の岬は、島の東海岸からは手前の相島と遠くの大島や地の島、草崎と勝島に重なってはるかに見えている。
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 金印については前項で、出土状況についてふれたが、発見者の名前や場所などに諸説あるなど、金印の来歴とその後のいきさつに不明な点が多い。
 資料館には、金印のレプリカも飾ってある。百姓甚兵衛さんの届け出口上書なるものの写しのほか、実際の発見者は「秀次・喜平」であり、届け出の甚兵衛はその雇い主か地主であったと推測している。
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 「漢委奴国王印」の切り方読み方についても、学説は必ずしも定まらないが、「かんのわのなのこくおういん」という大勢にしたがい、「委」は「倭」の略字であり、「奴」はこの福岡地方に勢力を持っていた原始小国家のことであると、資料館では結論づけている。となると、当然のごとく志賀島勝馬を根拠地とした龍人族との関係も容易につけられる。
 なぜこの金印が、こんな島から出てきたかについては、これまでも論議が紛糾したところで、隠匿説や遺棄説、はては盗難説まで生んだのも、ひとえに出土状況の不確かさのゆえんである。墳墓説が最も妥当で有力だとする資料館の掲示は、当然金印をもらってきた“志賀島海人族の長”の墳墓と結論づけている。
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 こうして島をめぐって,出土の地を訪ねてみても、少なくとも隠匿説や遺棄説・盗難説よりは、それが順当のように思える。
 一辺わずか2.3センチの小さな四角い金印を、初めて見たのは、もう半世紀も前、高校の修学旅行で上野の東京国立博物館へ行ったときのことだった。現在では、博物館の展示もレプリカ(それもかなり精巧な)が普通になっているが、あのときの展示物ははたしてどうだったのだろう…。レプリカなりの光を見ながら、そんなことを思った。
 本物の金印は長く福岡藩黒田家に伝えられ、明治維新後東京国立博物館に寄託されている。その後福岡市に寄贈され、現在では福岡市博物館の所蔵となっている。

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33.673596, 130.300529
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dendenmushi.gif九州地方(2012/10/28〜29訪問)

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タグ:福岡県 歴史
きた!みた!印(33)  コメント(4)  トラックバック(0) 

きた!みた!印 33

コメント 4

johncomeback

毎回密度の濃い記事に感心しきりです。
by johncomeback (2012-12-05 13:44) 

ダミアン88

はるか古の話に色々と思いをはせてしまいます。
不明な事の多い歴史ほど面白いですね^^
by ダミアン88 (2012-12-05 19:02) 

dendenmushi

@johncomeback さん、コメントありがとうございます。感心していただいて恐縮です。根がへそまがりなもんで、なるべく人と違うことをやりたいと考えてきて、こんなスタイルになりました。
お前のは字が多すぎてめんどくさい、という向きもあるようですが…。
by dendenmushi (2012-12-06 20:21) 

dendenmushi

@ダミアン88 さん、昔の話はおもしろくて、わたしは好きなんですよ。過去のことをごちゃごちゃ言うな、という向きもありますが…。
昔があったからこそわれわれの今があるわけで…。
そう、不明なところが多いのが問題ですが、だからいろいろ考えられる…。
by dendenmushi (2012-12-06 20:28) 

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