862 湯ノ尻岬・稲穂岬=久遠郡せたな町大成区花歌・久遠(北海道)大成も久遠まで来たがこの先がまだあってしかも… [岬めぐり]
久遠郡せたな町も、かろうじて一郡一町でその郡名を残すことができたので、郡の領域は広いが、大成区のなかで「久遠」という地名のついている地域は、極めて小さく狭い。
久遠漁港の周辺と若干山寄りの地域のみである。けれども、久遠神社も、久遠小学校も、久遠郵便局も、西隣の大成区都にあるので、やはり旧久遠村の中心地は、この地域一帯に広がっていたのだ。
現在では旧村名の「久遠」よりも、旧町名の「大成」のほうが多く使われているようで、中学校も、保育園も、診療所も、浄化センターも、役場支所も、みんな大成を名乗っている。
ここも町を歩く余裕がなかったので、大成学校前(これは中学校のことらしい)行きバスの車窓からのみ。
湯ノ尻岬のあるところは大成区花歌で、稲穂岬は大成区久遠の漁港のところ。湯ノ尻岬は、岬の尾根を道路が真っ二つに切り分けたような姿が特徴的で、そこから海に向かって岩磯が続いている。その名は、温泉を示しているようにみえるが、どうもそういう気配はない。
稲穂岬もそれと似たような山を伴うが、実際の岬表記は漁港の堤防の先に置かれている。ここは、岬といってもすでに堤防と一体化しているようにみえるので、大半は港湾工事で使われたのではないか、と想像できる。
久遠には「穴久遠」という地域の呼び方もあったようで、それは稲穂岬の崖に洞窟があったところからついたらしい。
この地域にも、古くから人が住み着いていた。その中心は当然アイヌであったろうが、中世からは和人も進出してきていた。
記録によると、嘉吉(かきつ)年間(1441〜43)に太田山神社が創建され、1455(享徳3)年には松前藩祖にあたる武田信広公(先にも出た上ノ国の花沢館の主)が久遠郡域の太田に上陸した、という。
太田というのは、久遠からは北西方向に10キロ弱のところにある、現大成区太田であろう。そこへ行くには、海岸にそびえる帆越山を北に越えなければならない。その山の名が暗示しているように、そこへは船でないと行くことができなかっただろう。
貝取澗のヨリキ岬付近から、湯ノ尻岬・稲穂岬の方を見ると、その先には小歌岬が重なり合って見えている。帆越山と帆越岬は、ここを回り込んでずっと北寄りにある。
現在では、帆越山トンネルを抜け、太田山の下で太田神社を過ぎれば、砥歌川が流れる太田に至るが、そこまで行くバス路線がない。そのうえ、この太田で道道740号線は行き止まりになっているのである。
どうか、部外者の呑気で勝手な言い草として大目に見逃してもらいたいのだが、道道の“行き止まり”というのが、いかにも辺境らしい雰囲気があっていい。妄言ついでに言わせてもらえば、いったい日本人のナン%が、この地域のことを意識しているだろうか。おそらく、その意識のなかでは、果てしなく遠いところにあるだろう。
ともかく、どうやらそこまでが中世の久遠郡域であったことは、確かなようだ。
それから時代が下って江戸時代になると、和人の進出は盛んになり、渡島半島南西部の一帯は、もっぱら和人が居住する“和人地”として知られることになる。
久遠場所や太田場所という、主に海産物であろうが、交易会所が開かれ、松前藩や天領地の支配下にあったようだ。
しかし、今回はその辺境の地である大成区の北端にあたる太田方面までは、とうてい行くことができなかった。公共交通機関だけが頼りの「でんでんむしの岬めぐり」では、バスが通っていなければ、お手上げなのである。
あとは、歩くしかないのだが…。
▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分11.26秒 139度50分40.58秒 42度13分13.09秒 139度50分9.84秒
北海道地方(2012/09/02〜03 訪問)
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