853 突符岬=爾志郡乙部町元和(北海道)蝦夷地の歴史を刻んだ一郡一町の乙部町は断崖が目立つ [岬めぐり]
乙部町は、地層の露頭があちこちにある。岬ではないため、また地図上にも表記がないためまったく見逃していて、江差病院から乙部へ向かうバスで通るときも気がつかなかったが、江差町との境界付近の滝瀬にも断崖層があったと、町のホームページで知った。
突符岬も崖の岬だが、ここは岬よりもその上一帯が「元和台海浜公園」となっていて、町ではその名を観光スポットにあげている。
遠くからも、岬の上にある施設の屋根が目立つ。この公園のウリは、道路からは見ることはできない岬の下、海岸の岩場にある海水プールなのだそうだ。
岬を越えたところで,振り返るとそれが…と思ったが、これはどうやらプールと並ぶ漁港のほうらしい。地図ではプールと漁港の間に“窓岩”とあるが、その名からして穴の開いた岩なのだろう。それとは別に、プールの南側に岩島が描いてあり、このほうが大きくて目立つ。
それがわかったのは、突符岬をずっと北へ過ぎて、後ろを振り返ったときで、岬の先には2本の立派な立岩が,小さくながらはっきりと見える。
これが道路を通っているときには、陰になってまったく見えなかった。
毎度のことながら、北海道の地名は、その由来を尋ねると、かなりの割合でアイヌ語源である。“とっぷ”というのもアイヌ語源っぽいが、“乙部”という町の名もそうである。“オトウンペ=河口に沼のある川”に由来するというが、その川とは乙部十字街のある町を流れている姫川で、その姫川橋を渡ってきたところだ。
バスが走る道路の脇には、乙部町の旗が立っている。なにやら二つの木がデザインされているが、これはなにを意味しているのだろう。
気になったので、乙部町のホームページをみると、ここから少し山に入ったところにある『縁桂(えんかつら)』で、隣り合う2本の桂の巨木が結合してできた連理の木だという。『縁結びの木』として地元のシンボルになっているようだ。
江差町の岬めぐりでも、若干ふれたが、松前、江差、乙部という松前半島と渡島(おしま)半島の西海岸一帯は、まだ「蝦夷地」と呼んでいた頃から、和人たちが最初に北海道に築いた、橋頭堡の役割を果たしてきた地域である。
江差線も廃止されるとなると、ますます一般部外者から縁遠い僻地になってしまうおそれもあるこの地域は、かつて蝦夷地でいちばん活況を呈し、和人にとって他のどこよりも最もなじみ深い蝦夷地であったろう。義経伝説も、大陸との繋がりを示唆するうえでとはいえ、渡島半島の北まで足を伸ばしている。
榎本武揚が五稜郭にたてこもった箱館戦争では、その鎮圧に向かった新政府軍がまず最初に軍艦を差し向けて、背後から攻撃しようと上陸したのも、乙部町付近だった。
「爾志(にし)郡乙部町」というのが、現在の乙部町の所在地表記である。110年くらい前から、爾志郡には乙部村と熊石村と、二つの村がずっと続いてきた。50年くらい前に熊石町が町制をしき、乙部町もこれに続いて乙部町になったが、2005(平成17)年になって大合併の影響がこの地域にも波及し、檜山支庁管内の爾志郡熊石町が渡島支庁管内の山越郡八雲町と合併する。このため、二海郡(ふたみぐん)という新しい郡ができて新八雲町が発足し、旧熊石町もその一部になった。つまり、現在では爾志郡は乙部町のみの一郡一町なのである。
爾志郡は当初は松前藩であったが、江戸時代後期に爾志郡域を含む渡島国域が天領とされる。その後いったん松前藩領となったりするが、乙部村以北は再び天領とされるといった複雑な経過を辿っている。
これには、松前藩自体の統治行政能力の問題や、対アイヌ政策の課題もあったためと思われる。
追記:前項「館ノ岬」について、ChinchikoPapa さんから、「館ノ岬の「館」とは、少し南に室町期からあった「花沢館」から取られているのでしょうか。」とのコメントをもらっている。154項でこれについてはふれているのだが、次項目で改めて、ということで…。
42度0分25.57秒 140度6分18.52秒
北海道地方(2012/09/02 訪問)
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