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848 湯町鼻=松江市玉湯町湯町(島根県)なんとまあ銅剣・銅矛・銅鐸から三角縁神獣鏡にたたらときて今度は勾玉作とは… [岬めぐり]

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 “景初三年”というのは魏の年号で、西暦では239年にあたる。その銘が入った銅鏡は文様面の丸い縁が三角形の山型に盛り上がっていて、神像と霊獣が鋳込まれているのでその名がある。その年号の入った三角縁神獣鏡が出たのが、なんと雲南市加茂町神原の神原神社下にあった古墳からで、場所は加茂岩倉遺跡の山から南に2キロほど下った谷間の赤川沿いの集落である。
 1972(昭和47)年、赤川の堤防修繕に伴って、神原神社の竪穴式石室を調査していて銅鏡は発見された。
 この“赤川”という名が、たたら製鉄を連想させるように、この雲南市一帯がたたらの谷で、代々を長右衛門が継いできた田辺家を中心として、最盛期の江戸時代には日本の鉄生産量の約7~8割をこの出雲地方で産出した、という地域なのである。
 ついでながら、雲南市は竹下登の地元でもあった。そこでまた、へそ曲がり的考察が頭をもたげてくるのだが、強力な竹下・青木ラインが島根県と中央政界に敷かれていた時代と、この付近の遺跡の発見が重なっている。そして、その発見のきっかけになっていたのが、神庭荒神谷と加茂岩倉ともに山の中に農道を通すための公共工事で、神原神社のほうは河川改修という公共工事だった、というのが実におもしろい。山口県もだけど、島根県もがんばっているのだ。
 この鏡が注目されたのは、そのことともたたらとも直接関係はないが、例の『魏志倭人伝』に「景初三年」に“邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の明帝に使いし、明帝から銅鏡100枚を賜”ったとの記載があるからで、その1枚ではないのかと、常にこの鏡は邪馬台国論争の争点にあったのである。三角縁神獣鏡だけなら、京都や奈良の古墳から大量に出土しているが、「景初三年」銘のものはほかに例がなく、大阪から出た平縁ものが1枚あるだけである。
 ただ、日本で発見されている銅鏡は300枚を越えるが、中国では1枚も発見されていないとか、景初三年鏡はその素材からみて国産であったとみられるなど、鏡が放つ謎の光は次々と乱反射して、謎が謎を呼んで諸説紛糾して収まるところがない。
 さて、もういいかげんで、たたらと銅鏡の谷を出て、宍道湖に戻ろう。
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 宍道湖では岬は少なく、前の鳥ヶ崎とこの湯町鼻の2つしかない。
 広さは宍道湖よりも若干東隣の中海のほうが広いかというそこでは、岬は10を数えるほどもあるのに…。でも、それはまたの機会に…。
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 宍道湖の地図を見ると、元々の水面域は現在の倍はあったように想像できる。斐伊川が平野を二分するように流れるが、その川筋から東側一帯は、かつては宍道湖の水面が広がっていた、と考えてもおかしくない。
 この川がその流域で山地を削って、あるいは砂鉄採取と、たたら製鉄が盛んに行なわれたことも大きな原因で、宍道湖畔に扇状地を拡大した結果が、現在の地図であると思われる。
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 湯町鼻は、玉湯川が宍道湖に注ぐ河口の出っ張りで、松江市玉湯町湯町の市街地で、玉造温泉のホテルの一部も岬といっしょに飛び出している。
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 その様子は、山陰自動車道が玉湯川を高く越えるところから、まっすぐに流れる玉湯川とともに見下ろすことができるし、またバスが松江玉造ICに降りて、宍道湖畔を温泉の宿に向かうところから見ることができる。
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 玉造温泉の中心街は、玉湯川を2.5キロも遡った付近になる。玉湯川は雲南市との境界の山中にその源を発し、約8キロほどを流れ下っているが、その流域には、∴マークつきで「出雲玉作跡」の表記が地図上にいくつもある。
 古代人が珍重した碧玉やめのうなどの緑色の石を産出したのが、玉造温泉街の東にある花仙山である。古墳時代から奈良・平安時代を通じて、玉の一大生産地として有名で、その石を加工して、勾玉や管玉などがつくられた。その工房集落が50を数えたが、平安中期に至って玉の需要と重要性に変化が起こってくる。もっとキラキラしたもののほうに人は惹かれていったのだろう。そうして、数百年続いた玉作にも終わりがやってくる。
 前項を読んで ChinchikoPapa さんからつけてもらったnice!返信コメントには、次は玉造を予想してか、「目白崖線から見つかり、わたしが首から下げている片側穿孔の勾玉も、八束郡玉造地域で産出した玉造石(碧玉)から作られています」とあった。
 実は、でんでんむしも以前に、松江(今では玉造も松江市になっているが、お城のあるほうの市街)の、今では数少ない玉を扱う宝飾店で、深い緑色の勾玉を買ってきたことがあったのだが、“目白崖線から見つかった”勾玉というのはすごいですね。出雲の玉で、出雲の玉作の手になる貴重な勾玉が、遠く関東まで運ばれた背景には、いったいどんなドラマがあったのだろうと、それを読んでしばらく想いが空に遊んでいた。
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 ああ、やっぱり出雲はとてつもないところだニャン。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度26分16.04秒 133度0分32.89秒
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dendenmushi.gif中国地方(2012/05/30 訪問)

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タグ:島根県 歴史
きた!みた!印(33)  コメント(6)  トラックバック(0) 
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きた!みた!印 33

コメント 6

ぱぱくま

きっと宍道湖も長い歳月をかけて形を変えてきたのでしょうね。鳥取や島根には踏み入れた事がないのでいつかは行きたいと思いつつも縁がありませんでした。古の日本を見に行きたいですね。
by ぱぱくま (2012-09-22 13:22) 

dendenmushi

@ぱぱくま さん、ここはなかなか縁を待っていても行けないところです。出雲の神さまもみずから望むものの縁を結ぶわけで…。
かくいうでんでんむしも、広島なのになかなか日本海側へは行けずにいました。山で県境をまたいだ、というのを除くと…。
ぜひ、行ってください。鳥取砂丘もいいですよ。
by dendenmushi (2012-09-23 06:23) 

ChinchikoPapa

ひょっとすると、加工されたものを出雲から運んだのではなく、出雲の一部の人々が海路で関東へとやってくるとき(亡命に近い船出だったかもしれません)、産出した碧玉をまとめて船に積み込み、関東で勾玉職人が片側穿孔の加工したものかもしれませんね。
これだけ出雲に由来のある、氷川社や八雲社が多い関東地方を見わたしますと、そんな気がしてきます。
by ChinchikoPapa (2012-09-24 12:59) 

dendenmushi

@「出雲の一部の人々が海路で関東へ」というのも、充分あり得たでしょうね。昔の人々の“移動力”(こんな言葉はないけれど)には、いつも驚きます。
この場合、可能性としてはやはり日本海を渡って、でしょうね。そうするとアルプスは避けざるを得なくなるだろうから、新潟付近に上陸して、南下して関東平野を“発見”したのかもしれませんね。
そんな空想も楽しい…。
by dendenmushi (2012-09-26 05:59) 

小笠原弘明

勾玉の原石は糸魚川産とされていますが、出雲の片側穿孔の勾玉は糸魚川の原石をもちいて製作したのでしょうか?
by 小笠原弘明 (2016-03-26 22:38) 

dendenmushi

@Yahoo!知恵袋のベストアンサーには、確かに「勾玉に使う石の主産地は糸魚川河口から…」そう書いていましたね。(^_^;..
しかし、勾玉というのは、実にさまざまな原石を使って作られています。めずらしい貴石があれば、なんでも材料にしたのではないでしょうか。
その原石のなかでも、メノウや碧玉、翡翠などが数も多く有名なようですね。メノウや碧玉は出雲でとれる石を使ったものが多かったでしょうし、翡翠は糸魚川など北部日本海沿岸産のものを使ったものもあったのでしょう。一節によると、糸魚川周辺の翡翠生産地も出雲の勢力圏にあったというくらいですからね。
片側穿孔という出雲独特の製造方式を使った勾玉にも、翡翠に限らず、いろんな石が使われたのではないでしょうか。
あ、これは上記コメントを書かれた、勾玉ユーザーのChinchikoPapaさんのほうが、お詳しいのかもしれませんが…。
dendenmushiが言えるのは、そのくらいのことです。
by dendenmushi (2016-03-27 08:28) 

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