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838 和田の鼻=長門市三隅中(山口県)村田清風記念館と香月泰男美術館とがある長門三隅は通り過ぎ [岬めぐり]

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 山口県が戦後一貫して強固な保守の地盤であり続けてきたことは、誰にも否定できまいが、長州人が昔から保守的だったわけではない。とくに、幕末維新の動乱期に、この地域「長州」の果たした役割は、まさしく国を根底から揺さぶり動かすもので、それはつきつめていくと藩士から領民に至るまで、長州人のほとばしる改革と抵抗の過激な情熱に支えられたものであった、といってよいだろう。
 こういう例は、日本史のなかでも特筆すべき驚異といってもいいくらいなものであろうが、その大元が吉田松陰にあった、というのは断定のしすぎだろうか。
 その影響を受けた人物たちが、その後の幕末の激動期を、長州や京都で世の耳目を引きつけることになるが、その前の長州藩内の動きがまた、非常に複雑で、それなくしては久坂玄瑞も高杉晋作も桂小五郎も、そして伊藤博文も歴史に名を残すことはなかったかも知れない。
 村田清風や周布政之介の名を知ったのは、大佛次郎の『天皇の世紀』(1977(昭和52)年〜・朝日新聞社刊)によってであったろうか。実際、正直な話、この辺りのことは、一度読んだくらいではなかなか頭に入らないくらい、ややこしくて込み入っているので、ほとんどのことは記憶に残っていない。
 司馬遼太郎の『世に棲む日日』や『花神』は、活字だけでなく、映像でも観たので、なんとなくイメージがあり、萩の小さな街の細い道を歩くたびに、否応なくそれらが蘇ってきたりする。
 まだ、萩までは行かず、仙崎湾にいる。
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 住友大阪セメントの石灰石事業所とコンベアの手前、仙崎港の対岸には、望ヶ鼻のちょっと南側に、もうひとつ和田の鼻という、こぶのような岬がある。
 だが、仙崎市街を南下するバスからは、正面に見ることになるので、その出っ張りが目立たない。
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 ここも三隅中という字名で、仙崎湾の南端付近が三隅下、そこには三隅川が流れ来て湾に注いでいる。
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 山陰本線と並ぶように走る北浦街道を走って、バスは昼食会場へ急ぐのだが、その手前で石灰石を運ぶベルトコンベアをくぐって少し行ったところに、村田清風記念館と墓所がある。これがなんと、国土地理院の地図では、両方に∴マークがつけられているのだが、そこへ寄ろうという観光バスは、おそらくあるまい。
 幕末初期の長州藩で、その藩政改革の先頭に立っていた村田清風は、ここ三隅出身だった。
 そして、その東隣までが、和田の鼻と同じ三隅中で、そこには∴マークはないが、香月泰男美術館があるが、ここまで行く観光バスも少ないだろう。
 没後30年にあたる2004年、東京駅のステーションギャラリーで開催された記念の展覧会へ行ったことがある。そこで初めて彼自信の抑留体験が残したシベリア・シリーズを観た。その作品群は、強く印象に残っている。
 当初は、彼の生家があった三隅町湯免に、三隅町立香月美術館として開館したが、その後の合併に際して、現在は長門市が運営にあたっている。
 長門市では、香月泰男美術館と村田清風記念館と、仙崎の金子みすゞ記念館と、共通の入館券を発売するなどしている。
 観光バスも、もっと寄ったげてください。
 ツアーのバスは、観光バスなら必ず寄る松陰神社へ。その夜は萩で一泊したが、選んだ宿は萩高の前にある北門屋敷。これがなかなか素晴らしい宿だった。その隣には、毛利輝元の墓所があるので、さっそく訪れてみた。
 人っ子一人いない夕暮れに、大樹が茂る幽邃な墓所は、これまでみたどんな墓所より、雰囲気があった。この付近には輝元の死後、天樹院という輝元の菩提寺があったのだが、明治新政府は早速、1927(明治2)年にこれをすぐに取り壊してしまって、この墓所だけしか残っていない。その5年後に新政府が出した廃城令で、萩城も取り壊され、これも石垣しか残っていない。長州自ら範を垂れる、というつもりだったのだろうか。
 宿から、萩城趾の指月山の下の海岸まで歩いて行けば、赤鼻の岬めぐりも可能だったはずだが、団体行動の隙間をぬってということができなかった。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度23分9.09秒 131度13分18.47秒
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dendenmushi.gif中国地方(2012/05/29 訪問)

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タグ:山口県
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きた!みた!印 31

コメント 2

青竹

宇部にある大学で3年間研究していました。
そのとき教授から山口県では今も防長精神が生きていると
言われたことがあります。
一度みんなで飲み会があったとき、寿司を頼んで注意されました。
長州では酒と一緒に米を食うものではない、魚はそのまま食べるべしと。
長州武士道では、米は最後にお茶漬けでさらっと食べるものだと
言われました。
山口は父方の祖母が産まれた土地でもあり、懐かしさがあります。
by 青竹 (2012-09-02 08:38) 

dendenmushi

@そうでしたか。宇部は、でんでんむしにとっても、縁のある町でして、宇部岬など、いくつかの項目で書いています。
防長精神ですか。そういう土地の気風みたいなのも、重要ですね。

by dendenmushi (2012-09-04 01:51) 

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