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□17:昭和20年・広島の夏の日=その5 広島原爆の日が何日か知っている人は4割もいないという [ある編集者の記憶遺産]

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畑小屋のあったところは

 広い入江は潮が満ちて光る。潮が引くとカニが体操をする。その北の端からは、小さな川が国道2号線を越え、山陽本線を越え、さらに奥に北に、曲がりくねりつつ細く延びる。それに沿った道を行くと、東西を低い山の連なりに挟まれた畑や田圃がどこまでも続く。
 その谷あいの入り口近く、安芸郡府中町字外新開、いかにもという地名をもつそこには、府中町の南の外れもいいとこで、小さな川の向こう側は船越町という隣町で、山と田畑の間に十数軒の家が散らばる。
 川が岩で段差をつくるところは、自然の洗い桶のような凹みができ、洗濯物から大根まで、人々のあらゆるものの洗い場になっている。さらに川は赤土の採れる山や段々畑の山を過ぎ、どんどん細くなっていくが、やがて田畑の広がりがなくなると山の薮の中に消えてしまう。
    ■
 それを取り囲んでいる山の高さは数十メートルほどしかないが、自然の雑木林というか、タブなどの常緑樹や名も知らぬ潅木が生茂る、広葉樹林帯の特徴をもつ。
 冬はヤブツバキが、春はヤマツツジやアセビが咲き乱れ、夏は松林を抜ける風が涼しく、無数のホタルが飛び交い、秋はズルタケ、ソウメンナバなどと勝手に呼んでいたキノコが、ドングリと紅葉の間に無数に生える。これらのナバはキノコ汁になる。
    ■
 疎開した安芸郡府中町外新開は、そんな場所だった。だが、広島と行ったり来たりの忙しい疎開生活では、そういう自然の環境を楽しむような余裕は、誰にもなかった。もちろん、現在では宅地化の波に呑み込まれ、その面影はどこにもない。
 ときどきは、米軍機がくるというので、山の斜面に掘った防空壕に避難しなければならない。夜には南の呉の方角で、盛んに爆撃を受けているらしい光がまたたき、遠い音がした。
    ■
 府中町の山の間の小さな谷の畑小屋を出て、山陽本線の踏切を越え、国道2号線に出ると、青崎の東洋工業へ向かう昇り坂がまず最初の難所。それから大洲の橋を渡ると下るが、また今ではマツダスタジアムに近い蟹屋町の昇りがあった。的場の交差点を回ると鶴見橋を目指して南に下る。
 それがだいたいのコースだったように思う。叔母は一人で、荷台に二人のこどもを乗せたリヤカーをこいでいく。今なら猿猴川(えんこうがわ)に架かるいちばん南の橋を渡れば、ほぼまっすぐ南竹屋町まで行けるので、もっと楽だったろうに。
 

10
風化はもうすでに


 さて、ここで問題です。
 広島に原爆が落とされた日が、いつかを知っている人は?
 
  全国でウソだろっ38%。 (T_T)
  20代ではマジッすか22%。 (-_-#)
  ほいじゃが広島でも74%じゃけん! (>_<)

 
 (数字は2005/8/4放送のNHK TV『クローズアップ現代』の放送データによる) この数字は、2005年のものだから、今だともっと下がるのだろう。
    ■
 そうか。いまからもう、67年も前(上記放送時は60年前)のことになるのだ。100年も経てば、経験者もいなくなり、歴史の箱の中にしまい込まれてしまうのだろう。
 日本のいちばん暑く長い夏は、このようにして始まり、このようにして過ぎていったのだ。
  ●昭和20年7月17日  米英ソ首脳会談、ポツダム宣言発表。
  ●昭和20年7月28日  鈴木首相ポツダム宣言を「黙殺」と談話。
  ●昭和20年8月6日   広島に原爆が投下される。
  ●昭和20年8月8日   ソ連が対日宣戦布告。ソ満国境を越え参戦。
  ●昭和20年8月9日   長崎に原爆投下。
  ●昭和20年8月14日  御前会議でポツダム宣言受諾を決める。
  ●昭和20年8月15日  終戦の詔勅ラジオで放送される。
  ●昭和20年8月30日  マッカーサー総司令官、厚木飛行場に到着。
  ●昭和20年9月2日   ミズーリ号艦上で降伏調印。
  ●昭和20年9月11日  GHQが戦争犯罪人39人の逮捕を命令。

 日本人はすべて、この長い夏のことを、歴史の事実としてもっと知らなければならない。
    ■
 当時まだ小さなこどもにとっては、どれもあずかり知らぬことであり、その意味も背景も理解できぬことであった。この頃のことはほとんど覚えていない。8月15日の記憶も、ほとんどない。いくつかのシーンだけが、焼き付いたように残っているだけだ。
    ■
 67年前の今日、叔母は「明日は広島へ行くけぇね」と、従兄弟とわたしに告げると、リヤカーの準備を始めていた。
 いつも広島へ行くときには、夏の暑い陽が照りつける前に南竹屋町へ到着するように、早起きして5時には出発するのだ。
 その日、わたしはよく行く小さな探検に出かけた。川の洗濯場の上には、なにやら小さなブドウの房のようなものがぶら下がっている。これは新発見、初めてみるめずらしいものだ。それをたくさん収穫し、それとホウセンカの花でつくった色水を材料にして遊んだ。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/05 So-net 改筆採録)

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きた!みた!印(33)  コメント(2)  トラックバック(1) 
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コメント 2

みぃにゃん

広島でも75%ですか・・。地震ももちろんそうですが、戦争があったということ、原爆が投下されたことはいつまでも頭に刻んで欲しいですね。中学校の時長崎へ被爆者の方のお話を聞きにいきました。
今ではもう被爆者の方も随分少なくなっているかもしれませんが
いつまでも忘れない心が二度と戦争をおこさないことにつながると思いますね。
by みぃにゃん (2012-08-05 13:18) 

dendenmushi

@広島の74%は、見方によっては少ないとはいえないのかもしれませんけどね。でも、やはり広島ですから…。
戦後の復興の際に、よそから大量に人が流れ込んできたともいわれていますし、関係ない人興味もない人がいてもしかたがない。

そのとおり、みぃにゃんさんのおっしゃるとおりですね。「いつまでも忘れない心」それがほんとうに、なによりたいせつなのですね。
そう思って、でんでんむしもせっかくブログをやっているんだから、その隙間に、この記憶を記録し、残しておくことを、決心しました。
by dendenmushi (2012-08-06 05:56) 

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