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□13:昭和20年・広島の夏の日=その1 どんなささいなとるにたらないような体験であっても… [ある編集者の記憶遺産]

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ひとつの運命の星のもとに

 どんな時代に、どんな親や環境のもとに、生まれてくるか、誰しもそれは自分では選べない。それを人は運命と呼ぶ。
 運命はまた、ほんの紙一重の神様の気まぐれや偶然によって、いとも簡単に、あっちでころころ、こっちでころころと変転する。
 そうとでも思って割り切らないと、人はこの世を生き抜いてはいけないのだろう。
    ■
 生まれてきた時代が悪かったとか、生まれてくるのが早過ぎたとか遅過ぎたとか、そういう表現で、人の運否天賦を呪ってみても、それもまたむだなことだ。そんなことは思わず、ただ、人は誰しも、生かされているから生きているのだ、と思うほうがよいのだろう。
 では、決して望んだ訳でもないのに、道半ばにして死ななければならなかった人は、どう思えばいいのだろう。
    ■
●1939(昭和14)年 5月/ノモンハン事件 7月/国民徴用令 9月/ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦始まる
●1940(昭和15)年 9月/日独伊三国同盟調印 10月/大政翼賛会発足 11月/紀元2600年
●1941(昭和16)年 4月/日ソ中立条約 10月/東条英樹内閣組閣 12月/ハワイ真珠湾攻撃・マレー沖海戦
●1942(昭和17)年 1月/マニラ占領 2月/シンガポール陥落 5月/珊瑚海海戦 6月/ミッドウェー海戦 8月/米軍ガダルカナル上陸・第一次^第三次ソロモン海戦

 既に大陸では1937(昭和12)年から蘆溝橋事件に始まる日中戦争が続いており、そのなかで国民は“紀元2600年”を奉祝していた。開戦の翌年には、日本軍の前線は最大まで延び切っていて、これから後は下り坂を転げ落ちる一途となる。
    ■
 この間に、広島の町の真ん中で結婚三年目の夫婦にこどもが産まれ、それから二年も経たないうちに妻を病院で亡くし、悲嘆した夫は幼子を親に託し、職業軍人でもないのにお国のためにとわざわざ志願し、海軍軍属として戦地に赴く。
 大きな時代のうねりの中にも、庶民のささやかな暮らしがあり、喜びもまた悲しみも綾なしていた。おそらくは、“こんな時代に生まれてきたことを恨む”ようなこともなく…。


ほんとに悲惨な目に遭った人は何も語ることもできず死んだ


 原爆のことを語ろうとしている。こんな、他人にとっては実にどうでもいい私事を連日連ねつつ、そのことをくわしく書いて、人様の目に触れることを覚悟のうえで記録しようとしているのも、今回(注:2005年)が初めてのことである。
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 悲惨な体験をした人はたくさんある。たくさんあった。それに比べて、自分のその程度の体験などは、とても体験のうちに入らない。劫火の中をかいくぐって九死に一生を得たというわけではないのだから、人に語るほどの資格はなにもない、と思っていたからだ。
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 しかし、どんなささいな体験でも、語らねばならないと思いなおした。誰でも、とるにたらない、たいした体験でなくても、語ったほうがいいと思うことにしたのだ。
 ただ、本当にひどい体験をした人は、何も語ることもできずに死んでいるのだ、ということだけを、決して忘れずに…という条件付きで。
    ■
 マスコミが勝手につけたキャッチフレーズに「怒りの広島・祈りの長崎」というやつがあったが、そんなに単純に整理できるものでもない。それに、広島の人は、どちらかといえば原爆について語ることを、できれば避けたがる人も多い。
 家の中でも、祖父と原爆の話をしたことはない。今となっては、それも悔やまれる。
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 戦後12年という歳月をどうにか生きて、どうにかわたしを育ててくれた祖父を支えていたのは、先に死んでいった者が託した責任を果たすための義務感であったろう。
 その直接の死因は、持病の喘息の悪化による呼吸器系の障害だった。正式には病名がそうだったことはなかったが、晩年の弱り方は、とても尋常ではなかったので、やはり原爆症の疑いが大いにあったと思っている。
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 アメリカ軍は、進駐してしばらくすると、比治山の上の目立つところに、かまぼこ型の建物を数棟建てた。これは、原爆の効果がどの程度あったか、その新兵器が人間へもたらすダメージを調査する機関のためのもので、正式名称は知らず、ただみんな「ABCC」と呼んでいた。
 ABCCの連中は、なぜか市内には住まず、呉方面から占領軍専用の銀ピカのバスで、国道二号線を走って通っていた(とうわさされていた)。そのバスが通るたびに、われわれこどもたちは、それに遭遇すると何かいいことでもあるかのごとく、「あ、ABCC! 見た見た!」と囃した。
 祖父も、このABCCに呼び出されて、何度もそこへ行っていたことがある。あるときは「今日はアメリカさんの送り迎えつきじゃけぇ」と車で帰ってきたりしたこともあった。
 だが、ABCCが原爆症の治療をしたことはない。
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 結果的に今まで生きてこれたのだから、別にたいした、ドラマチックな経験をした訳ではない人間が、何も語ることもできずに死んでいった人に代わって語ることも、到底できないのだが、せめて記憶を風化させないためには、なんらか、つっかい棒の一本くらいの役に立つかもしれない。
 そう思って、しばらく、8月6日までくらいの予定で、この短期連載は毎日続けてみたい。

dendenmushi.gif(2005-07-末 記・2012/08/01 So-net 採録)

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きた!みた!印(36)  コメント(4)  トラックバック(1) 
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コメント 4

みぃにゃん

意外と、おおまかな原爆で被害を受けた広島、長崎のことはしっていても経験した人にとっては私たちの知ってる知識なんてほんのひとかけらなのでしょうね。ABCCっていうのも全く知りませんでした。
by みぃにゃん (2012-08-01 13:06) 

dendenmushi

@みぃにゃん さん、コメントありがとうございます。
なんでもそうですけどね、知識と経験の間には、かなりのギャップがあるのが普通です。だけど、知識や情報を増やすことで、それを埋められないにしても、小さくすることはできる…。
大震災津波の被災の現実についても、同じようなことがあるのではないか…。
by dendenmushi (2012-08-02 05:17) 

モモチン

こんにちわ。
先日、岡山の宇野のことでメールした者です。楽しく拝読いたしております。
現在、フランスのマルグリット・デュラスの書いた「ヒロシマ・モナムール」という本を読んでいます。ヒロシマでの日本人男性とフランス人女性とのひと時の愛をテーマにした作品です。(グランドホテル形式の一環でしょうか)まさに広島での原爆が愛、そして男女の欲望とともに描かれています。読み応え十分の作品です。
by モモチン (2015-07-24 21:05) 

dendenmushi

@モモチンさん、やっぱり本のほうがいいのですかね。
50年代の終わり頃だったと思いますが、デュラス自身が脚本を書いて、映画になっています。
その題名がなんと「二十四時間の情事」という、いかにも思わせぶりで物欲しげなタイトルで、アラン・レネ監督の初めての長編でした。
日仏合作で、岡田英次が出ていました。
by dendenmushi (2015-07-25 08:40) 

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