824 犬鳴岬=下関市豊浦町大字宇賀(山口県)赤間関に馬関に下関はみんな同じところを示していたのだが… [岬めぐり]

幕末維新の大回天で、非常に重要な要素となった、二つの対外戦争があった。戦争といっても局地的な小競り合いのうえ、地上戦ではなく、敵は海の上から軍艦で砲撃を仕掛けてくる。兵器火力の圧倒的な差で、地上軍には手も足も出ない。
それが、“攘夷”を叫ぶ日本人が、初めて欧米を相手に戦った戦争だった。1863(文久3)年の薩英戦争と、1864(文久4)年の馬関戦争または下関戦争である。攘夷派の急先鋒であった薩摩と長州が、それぞれ自領内で始めた戦闘行為で敗れ、その後の思想と行動を急旋回させるに至ったという点で、非常に意義深い負け戦であったといえる。
薩摩はさておき、長州のこの戦争は、1863年に長州藩が関門海峡を封鎖し、外国船を砲撃することで、幕命に従って具体的な攘夷行動を起こした(と、長州藩は主張した)ことに始まる。結局は、この戦争でも欧米列強連合の艦隊に、長州は歯が立たず、フランス軍には壇ノ浦砲台を一時占領されてしまう。
この戦争についての記録では、“馬関”という表現がたくさんでてくるのだが、現在の地図ではこの名はどこにもない。
下関は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれていた。赤間神宮の「赤間」は、古くからこの付近を指す地名であったので、これは自然のことらしかった。1878(明治11)年の郡区町村編制法によって、東京に15区、大阪に4区、京都で2区、名古屋、横浜、堺などにも1区ずつ区ができた。このときこれと並んで、下関に置かれたのが「赤間関区」だった。
1889年になって、改めて全国で最初の市制が施行された時には31市が誕生しているのだが、そのときもここは「赤間関市」として発足した。山口県下では、これが唯一の市だった。
これでもまだ、“馬”がどこからでてきたのかわからない。だが、なんのことはない、「赤間関」=「赤馬関」と書いてこれを“あかまがせき→せきばかん”と呼び習わすようになった。これを、馬関(ばかん)と縮めただけのことである。
この当時もそうだが、でんでんむしなどが「下関」として理解していたのは、山口県の最南西端のトンガって突き出て、対岸の九州と海峡をつくっている一帯のことであった。
現在では、下関市は海峡付近だけでなく、日本海沿岸にまで市域が大きく拡大している。

バスが走っているところは、その下関市の長い響灘に沿って南北につながった海岸の、ほぼ中央付近のへこんだ部分で、この海岸線が本州の最西端を形成している。そのの上下南北にある二つのおおきな出っ張りに挟まれている。

下の出っ張りはすっ飛ばしてきたところであり、上の出っ張りはこれからすっ飛ばす予定らしい。

岩が何本も海に向かって突き出ている海岸の、北寄りに一段と大きな岩の棒についている名を、犬鳴岬(ばな)という。名前もなにやら曰く因縁のありそうな名だし、“岬”と書いていながら、わざわざ“ばな”と読ませるのも珍しい。

その岬を越えていくバスの車窓からは、運悪くはっきりとした写真は撮れなかったのだが、その向こうに大崎鼻も見えてくる。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度12分14.31秒 130度55分48.21秒




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