804 弁天崎=東牟婁郡那智勝浦町浦神(和歌山県)紀伊半島東部では台風12号の影響からまだダイヤが復旧していない [岬めぐり]
駅前には「トルコ友好の町」のアーチが建ち、ホーム横の斜面には「本州最南端の駅」の標識板が立っているJR紀勢本線の串本駅から、列車に乗ったときは、紀伊半島の南部と山間部では、まだ2011年8月末の台風12号の被災(和歌山県下で55名もの死者行方不明者)から完全には立ち直っていなかった。
串本までは、列車が間引きされていたくらいですんだが、ここから新宮への紀勢本線は大幅なダイヤ変更と、新宮から熊野市までの間は完全運休で、その間はすべて代行バスを走らせて営業している、という状況だった。
どうにか動いている新宮行きに乗り、途中の紀伊浦神駅で降りた。そこは、行けなかった岬である荒船崎と冨久良門崎がある半島の北側に入り込んだ入江(玉ノ浦)の奥まったところにある。
小さな無人駅にも、ダイヤ変更の掲示があったが、そこではまだ紀伊勝浦と新宮の間も不通のようになっていた。だが、新宮までは何本かは走っていた。
駅の北東にある塩釜明神の境内には、浦神社を末社としてあるが、これがもともとの産土神で、この土地の名もそれに由来する。
大きな半島に抱え込まれたようになっている、深い入江に面したところに湾を囲むようにして静かに集落があり、そのいちばん奥が浦神港となっているが、どこにも桟橋も防波堤もない。
下田原浦の卯辰(※だいたい東※)の方一里八町余り、村の西、下田原浦領の堺より山脈が左右に分かれ相対して東の方に差し出てその間の海湾南北の長さ四町ばかりで、東の方湊口から西の方の窮りに至るまでの東西の長さは南北の長さに十倍する。その湾を隔てて南北相向かって村居をなしている。
北は大辺路の街道で、これを本村とし、南を向地(むかいぢ)という。向地は山の麓にあってその峯は東西に横たわって南を塞ぐのを寒風(さむかぜ)峯という。
細長い入江になっている玉ノ浦をはさんでいる、南の半島は「寒風(さむかぜ)峯という」としているのだが、その名は現在の地図には残されていない。この半島は確かに大きな衝立で、風除けの役目を果たしている。
村中の田地は海岸をもって畔となし、高低はほとんど海面と等しいが満潮でも田地に入ることがないので風浪の静かさを知ることができる。湾の中は海底が深くて大船を停泊するのによい。綱知らずということができる。また湾の中に大床島・鍋島・取子島などいう大巌がある。
(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡大田荘浦神村)
『紀伊続風土記』のいうように、“綱知らず”なので、船はそこいらに止めておけばよいので、桟橋も防波堤もいらないのである。
わずかに埋め立てで湾内に広がったような一角があって、浦神小学校とグランドがあり、その先が弁天崎である。小山がポコンとあるが、みたところ特に弁天さまが祭られているような形跡もない。埋立地の内側の岸が船を寄せる岸壁になっているようだ。
現在の地図で確認できるのは、鍋島だけなのだが、あるいはこの弁天崎のある小山こそが、かつては大床島か取子島だったのではとも思われる。
検潮所かなにかのようなコンクリートの小さい建物は古そうだが、丸い小山の周囲は、まだ埋立てから日が浅いようにもみえる。
小学校の前には、岩礁地帯も広がっていて半円形の石組みの堤防があり、そこから細長い玉ノ浦の口のほうを眺めてみると、左手に岩屋崎、右手に仏崎が見える。なるほど、「田地は海岸をもって畔となし、高低はほとんど海面と等しい」というのは、この海岸道路から見える海面で、今なおイメージできる。
42号線の熊野街道の浦神バス停から、今度は太地駅まで熊野交通のバスに乗る。
33度33分29.86秒 135度53分44.08秒
近畿地方(2011/10/07 訪問)
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