794 クレ崎=東牟婁郡串本町潮岬(和歌山県)海の難所は今は昔の話だけどリアル本州最南端はここだよ [岬めぐり]
“潮岬が本州最南端の地である”ことには、誰も疑いを挟めないだろう。だが、厳密に言うと「潮岬」という名の「岬」そのものはないこと、串本から南にぶら下がった、できかけの蜂の巣のような台地全体の西側を潮岬という字名で呼び習わしていること、潮岬灯台の北側の「潮ノ御崎」から「潮岬」になったらしいこと、などについては、これまで述べてきたとおりである。
では、実際の正確なリアル本州最南端はどこか。
それは、クレ崎の先端である。
北緯 33度 25分 59秒 :東経 135度 45分 45秒。
串本駅前から乗ってきた、潮岬行きのバスの終点は、“潮岬観光タワー”の横になる。
そこは、上野、向地、芝古地と、南に向かってのびてきた集落の家並みが途切れるところで、周回道路がある標高40メートルくらいのところから、緑の芝地がゆっくりと広く海に降りていく。
その先にある白く横長で平べったい建物は展望台であろうか。そこから大きな黒い岩の塊が盛り上がり、すぐに海に落ちている。
今回初めて登った、“潮岬観光タワー”の上は、ほかに誰も人がいない。そこから、そんなクレ崎の風景を、のほほんと眺めている。
クレ崎も、この方向から見ると、単なる岩のようにしか見えないので、前回の写真のなかから、灯台下から東を見た写真も合わせて並べてみた。
水平線は、わずかに丸みを帯び、ちょうどその中央に、黒い船影が浮かんでいる。
思えば、でんでんむしが初めて潮岬を見たのは、半世紀も前のことで、沖を航行するセメントタンカーの船上からだった。そのことは、前793項でもリンクをつけた 053 潮岬の項に書いていた。その頃には、まだタワーはなかったはずだが、白い灯台を載せた島のように見えた潮岬の風景は、何十年経ってもあせることがなく、はっきりと記憶に焼きついている。
今また、それとはまったく逆に、岬のタワーから、水平線を行く船を見ている…。いつかはきっとやってくる…。
そのときのタンカーの航路は、風景の記憶からすると、水平線よりももっと陸地に近いところだったように思う。タンカーより小さな船は、さらにもっと沿岸寄りを盛んに行き交っている。
岩礁と潮流で、岬の沖が海の難所とされてきたのは、もはや昔のこと。その当時の船と航海術による航行が、いかに危険に満ちたスリリングなものであったかは、いまや想像の外である。
『紀伊続風土記』には、上野浦の項にこんなことも書いてある。
●また『続日本紀』に「天平勝宝6年に吉備朝臣真備の船が益久ノ島より進発して、紀伊国の牟漏ノ崎に漂流して着く」とある。奥熊野太地村に牟漏崎の名があるので、すなわちその地であろう。しかしながらここは南海に突き出ているので、南海に漂流する者は多くここに着く。今もなお異国船が時々この地に漂着することがあるので吉備公が漂着したのも、あるいはこの地であるかもしれず姑疑を存すという。このことは詳らかに太地村の条下に出ている。(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡潮埼荘上野浦)
ちょっと笑えるくらいおかしいのは、吉備真備が紀伊国の牟漏ノ崎に漂着したのは、太地村ではなくて、ここではなかったかと、疑義をはさんでいることである。
「牟漏ノ崎」というのは、太地の現在の名で言うと燈明崎のことらしいのだが、『続日本紀』の記述を認めつつも、太地よりも南海に突き出ている潮岬のほうが漂着する率が高いので、吉備真備の遭難漂着も「あるいはこの地であるかもしれず姑疑を存す」と、かなりこだわっている。こういうところを読むと、この地誌の筆者に、奇妙な親近感を覚えてしまうが…。
そのくらい、この周辺では船の遭難が多かった、ということなのだろう。
それを見張るという意味もあったはずの、“遠見番所”も、「村の南五町ばかりの出崎にある」とされているので、その番所もクレ崎だったとみられる。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度26分1.89秒 135度45分44.53秒
近畿地方(2011/10/06 訪問)
半島の東と西で、風向きとか天気が変わるということがあるのでしょうか。
そうなると、帆船では航海が難しいでしょうねえ。
記事では晴れて穏やかな海ですが。
by ナツパパ (2012-05-19 13:02)
@ですよね…、いまからは想像もつかないくらいの航海のむつかしさなんでしょうね。遭難物語は、このあと大島にも…。
by dendenmushi (2012-05-20 05:51)