789 稲村崎=東牟婁郡串本町有田(和歌山県)ここも線路は海から遠く車窓からは確認できない岬 [岬めぐり]
785 御待崎の項では、どうやらJRの車窓からのチェックに失敗したようだ。海からはそんなに遠いというのでもないのに、ロケーションにどうも恵まれなかったらしい。この稲村崎では、線路はさらに海から遠く、奥まったところを通り、トンネルもいくつかあって、車窓からの確認が苦しい。
有田といえば、和歌山にはミカンで有名な有田市があるが、ここ紀伊有田の市街地が固まっているところからは、有田川(これも有田市の有田川と同じ名前)を数百メートルも上流に遡って紀伊有田の駅がある。駅からは、入江の奥にある有田漁港の南にせりだした尾根と、その反対側の山が見える。稲村崎はこの左手の尾根のもっと先にあるのだ。
紀伊有田駅を出ると、またトンネルに入ってしまうので、次に稲村崎付近が眺められるのは、串本町の市街地の細くなっているところの西海岸、植松区の海岸からになってしまう。
岬が重なりあって、わかりにくいが、付け根に白い串本海中公園センター水族館の建物がある。その左手が稲村崎となる。
串本町は、昔の潮埼荘と重なるようだ。潮埼荘については『紀伊続風土記』(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡潮埼荘)の記述も詳しいので、次項に続いてしばらく引用が多くなる。
潮埼荘全十八ヶ村。西は周参見荘と界し、北は佐本荘および三前郷と界し、巽(※東南※)は海に面し、串本浦以下の諸村はみな大島と海を隔てて東西相対する。その広さは東西七里半、南北一里。潮御埼は別に南に一里余り出ている。
「潮岬」は「潮御埼」と書かれている。潮埼荘の名は、当地を支配していた豪族“潮崎氏”の名に起源があることがわかって、興味深い。その潮崎氏の支配も、そう長くは続いていなかったようで、断絶してしまう。
この地は古の三前郷の内である。中世、那智山の管内となり、潮崎氏が支配したので潮埼荘の名が起った。潮と塩、訓が同じなので、塩埼とも書く。この荘はだいたい一側に海岸に並んで村をなすので、漁を専らとして農を兼ねている。漁事は時に従って色々あるが、春夏の間は鰹を取って鰹節を作り、秋冬は細魚(サヨリ)を取って諸国に売り、その一方で魚燈を製するのを専らとする。
兼農漁業を営む住人の生計の柱となる産物は、いろいろあるといいながらサヨリをあげているのがおもしろい。魚油や鰹節がこの当時いかに貴重であったかを示している。
浦々はみな同じこの地熊野にあって最南に突き出て、且つ荘中の諸村はみな山を北に負って南の方は海に面するので、最暖の地である。住民の多くが袷(※あわせ:裏地のある和服※)で冬を渉る。貧しい者は単(※ひとえ:裏地のない和服※)を着て寒さを凌ぐことができるという。
冬でも袷ひとつで過ごせるほど、温暖であるということは、ありがたいことである。また、村々が山を背にして南が海という地形が、この地を豊かにしてきたことも偲ばれる。
前にここに来たときもそうだったが、そんな明るい陽光の中、紀勢本線の列車はいよいよ串本駅に近づいていく。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度28分39.79秒 135度44分21.10秒
近畿地方(2011/10/06 訪問)
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