746 金山崎=海南市下津町方(和歌山県)紀文のみかん船はここから江戸へ向けて船出した [岬めぐり]
金山崎といういかにもバブリーな名が関係あるのかどうかは不明だが、下津港はかの紀伊國屋文左衛門がみかんを積んだ船を、江戸へ向けて出航させた場所であるという。
現在の下津港は、深く切れ込んだ入江の最奥部南端に発達しているが、岸壁の対岸にその場所はある。加茂川の河口にあたるところである。そこから、西へ張り出した小山の西の端が金山崎。
ちょうど岸壁から見ると、右手の大きなクレーンのようなものがある辺りが“紀文船出の地”であり、左の端が金山崎、というわけだ。
う〜ん。だが、ここも実際の金山崎は見えている岬の少し向うの奥まったところにあるので、この位置からだとまたしてもいささか微妙なのだ。やっぱり、アップで見ると金山崎の表記のある岬そのものは、手前の出っ張りと防波堤の陰に隠れている。
この山もみかん山で、地図には点線の道が描かれており、下津大崎へ向かう自動車道は、高度を40メートルくらいまで上げながら岬を回り込んでいく。
紀伊國屋文左衛門は、紀伊国は湯浅の生まれということになっていて、三波春夫の歌には紀文だけで三つもあるが、史実として明らかなことは、その時代背景となるエピソード以外にはほとんどないらしい。
したがって、一部ではそういう人物は実在しなかったのではないかという「架空の人物説」もあるくらいである。
♪沖の暗いのに白帆が見ゆる〜 あれは紀ノ国みかん船〜
湯浅は、下津と有田市の南に続く町で、味噌や醤油などの伝統を産んだ古い町でもあるが、紀文はこの地域のみかん山から豊作で暴落したみかんを買い集め、古い船を修理して下津のこの港から嵐をついて船出する。時化続きで荷が入らず、正月のみかんが待たれていた江戸まで、これを運んで大儲けをした。
抜け目のないことには(というより回漕・廻船ではむしろ常識というべきだろうが)、帰りには今度はみかんで儲けた金で塩鮭を買い込む。関西で流行していた風邪に効くと宣伝してこれを高く売りさばいた、というのが紀文大尽といわれた大富豪へのスタート。
日本人は、こういう話、好きだからねえ。
そういえば、もうひとつこれとは対極にあるような話、忠臣蔵も紀文とほぼ同時代と言っていいのだが、この二つの話にはあってもよさそうな接点がないのだ。
もっとも、討ち入りのときには、紀文は柳沢吉保派に取り入っていて政商になっていたはずだから、男でござるの天野屋利兵衛にはなれなかったわけだが…。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度7分20.04秒 135度7分53.61秒
近畿地方(2011/10/04 訪問)
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