724 茅柴岬=小樽市祝津(北海道)忍路高島およびもないが…と「江差追分」も歌った小樽のニシン漁 [岬めぐり]
「江差の五月は江戸にもない」とまで謳われたニシン漁による繁栄は、渡島半島の江差を中心とする日本海側南部から徐々に北上していったのではないか、と考えられる。その記録や伝承に残る北限は、どうやら留萌付近まで広がっていたのではないか。
積丹島武意のトンネルはなかなかに印象深いものがあったが、その途中途中のあちこちに、ニシン漁の歴史を示す痕跡が残されている。ここ小樽にもそれはある。
高島岬から南を望むと祝津の港があり、その向うに茅柴岬が長々と延びている…とつい書いてしまうのだが、実際は茅柴岬は200メートルほどしか飛び出していない。
地図で見るときと実景を眺めるときには、湾曲している浜辺が地図では直線に近かったりなど、いささかギャップがある。ここでも岬の付け根の海岸とそれに続く海水浴場を横から眺めるので、岬が長々と見えるのである。
現存する鰊御殿は20にも満たないと思うが、高島岬と茅柴岬の間の小樽市祝津3丁目には、いわゆる「鰊御殿」と一般に呼ばれるものが、旧田中福松邸(小樽市鰊御殿)、旧白鳥家番屋(群来陣)、旧青山政吉邸(小樽貴賓館 にしん御殿 旧青山別邸)と三つもある。
もともと鰊御殿とは異なる番屋であった群来陣は海岸通りにあり、一部は料亭のようになっている貴賓館は網元の別邸だったらしい。そして、日和山灯台の下にあった赤い屋根の小樽市鰊御殿は、小樽市の施設になっている。
別邸であった小樽貴賓館が、海岸から少し入ったところにあるのはうなずけるが、灯台の下の小樽市鰊御殿は、こんなに高いところにあったのでは、漁に従事する人にはちょっと不便なのではないかと思った。
小樽市の解説を読んで、その疑問も解消したのだが、これは最初からここにあったものではなかった。積丹半島の泊村(原発の村)にあったものを、1958(昭和33)年に現在地へ移築したのだという。
祝津から赤岩山の下を迂回する小樽行きのバスは、茅柴岬への道は通らない。したがって、ここは高島岬から眺めるのに限る。
「江差追分」の江差には、この岬めぐりでも訪問済みなのだが、その歌詞の中に、小樽の地名である“忍路高島”が読み込まれているのは、ちょっと不思議な気もする。
こういう歌の場合、いろんな地方の歌と交じり合ったり、替え歌などもあって、どんどん歌詞が増殖していくらしい。
そんなこともあって、正調を伝えるため「江差追分」の基本となる三つの歌詞を決められているというが、その三つの歌詞の中に、それがちゃんと入っている。
つまり、“江差追分の三大歌詞”とは、
♪「かもめの鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな」
♪「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」
♪「松前江差のかもめの島は 地からはえたか浮き島か」
とされていて、「江差追分」として認められるにはこれだけの歌詞は押さえておかなければならない、ということだ。
そこで、この「およびもないが」の意味が、距離的なものであれば、忍路高島までは遠くてとても行けないけれどもせめて弁慶岬を回って寿都湾に面した寿都町の歌棄(うたすつ)・磯谷までは…ということになる。
別の歌詞には、「忍路高島 およびもないが せめて波風 おだやかに」というのもあったりする。また、今の地名表示と異なり、茅柴岬を含む一帯の海岸を高島と称していたとも考えられる。
「江差追分」の歌詞自体は、ニシン漁場の南から北への移動とは、直接の関連はないのだろうが… 。
43度13分29.85秒 141度1分12.67秒
北海道地方(2011/07/18 訪問)
北の海側は等高線がびっしり...崖になっているのですね。
このあたりは。崖が多く連なっていますね。
by ナツパパ (2011-11-26 17:18)
@赤岩山から西のオタモイにかけて、こんな崖が続くようなのですが、やはり道がないので、「人を寄せつけない」と書いたのは、そのためです。
by dendenmushi (2011-11-28 06:32)