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722 竜ヶ岬=小樽市忍路(北海道)オタモイの窓岩・立岩とまたしても見落としていた∴史跡マークも課題に残し… [岬めぐり]

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 竜ヶ岬は、断続的な小雨に黒く沈んでいる。これでは岬の顔もよくわからない。
 そこで、写真を明るくしてみる。この岬の東側は、60〜90メートルくらいの二つのピークがあるが、どちらもその海岸線は、切り立った断崖絶壁で、まるで刃物で切り取ったようになっている。
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 岬の先端に近い崖には、白いものがあるが海鳥の糞なのだろう。
 忍路湾からは、この半島の東の先端に位置する竜ヶ岬は、見ることができない。車に乗せてもらってきた真っすぐな一本道を、229号線&5号線までてくてく戻る。
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 道もあるかなしかの軽い峠になっていて、下りかけたところの道端にベンチがふたつ設けてある。ryugamisaki10.jpg
 なんでもない道なのに、そのひとつは、盆栽棚の流用のようでもあるが、よくあるように不用品を粗大ごみに出す替わりにポンとそこらに置いたというのとは少し違うようである。
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 ベンチの周りもきれいに整えられているので、「この景色を眺めながら一休みしていってくださいよ」とでもいうような意図が感じられる。そんなに疲れるような道でもないのだが…。
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 そこからは、小樽海岸がのびのびと延びている。いちばん遠くに見える岬とは名前のついていない岬までは、およそ6キロ近くにもなろうか。
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 地図では、そこには窓岩という名と立岩という名が記されている。ズームで見ると、なるほど白く開いた窓のように見えるところがある。また、その手前に黒い岩があるので、それが立岩なのだろう。
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 よく見ると、窓岩の岬の先端は直立した断崖で、その下に白い漁船には見えない船が浮かんでいる。
 この付近には、オタモイという地名があるので、オタモイ岬とかオタモイ半島とか呼ぶ場合もあるようだ。(例の『石狩挽歌』にも、これがまたちゃんとあるんだなー。)
 しかし、国土地理院の地図を見ても、窓岩のところにはかなりの厚さのある断崖で、そんなに簡単に向うが見通せるほどの洞門の窓がありそうにはない。
 では、この白い縦長の壷のように見えるものが洞門でないとすると、これは、いったいなんなのだろう。
 そう思ってみると、立石のほうもほんとにこの黒いのがそうか?、と疑問が生じてくる。
 困ったものだが、ここは遠目に免じて(?)深く追求しないでおくことでよしとしよう。
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 手前には、桃岩が見えているが、その向うには傘岩もあると、地図は教えてくれる。桃岩は、この角度からでも、その名が岩島の形からの連想であることが想像できる。
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 ベンチの下には、ドーム型の建物があるが、どうやら普通の民家らしい。こんなところでこんな普通ではない変わった家を建てて暮らしている人は、どんな人なのだろう。
 丸い部屋から、小樽海岸を眺め、一本の大木の立つ庭に出ると、竜ヶ岬も見える。こんな場所で過ごす毎日は、どんなものなのだろう。
 人の暮らしの不思議さは、日本中どこへ行っても思われることである。もちろん、自分のことですら、なんでこんなところでこんな暮らしをしているのかと、他人から見れば充分不思議なはずではあるのだが…。
 719 畚部岬の項でふれた“フゴッペ洞窟”と同じく、ここでも史跡マークが地図にあることに気がつかなかった。岬ばかりに気をとられて、海岸付近の拡大図ばかりを見て、山のほうをよく見ていなかったらしい。
 ドームの家の湾寄りから、忍路トンネルの上を越える道が分岐していて、そこから山を越えると東西に流れる蘭島川の支流がある谷筋に出る。そこには、“忍路環状列石”という史跡マークがあった。歩いていても気がつかなかったが、このちょうど上を通る道が、そこへ通じていたらしい。ryugam01.jpg
 日本における環状列石は、東北地方だけなのかと思っていたが、北海道にもあったのだ。ストーンサークルというよりは、環状列石のほうが重みがあっていいと思うのだが、これも現在の定説ではなべて、“古代の墓地”として片づけられようとしている。
 古代には深い入江の奥に位置していたと思われる忍路の環状列石も、明治初期に行なわれた調査では、1メートルの赤土層の下には、浜石が層をなしていたというし、それらの石はシリパ岬付近から運んできたものという説もあったようだ。また、地図には史跡マークが付いていないが、この石狩湾余市周辺では、ほかにも複数の環状列石があるらしい。
ryugamisaki03.jpg
 後世に人がいじったり持ち去られたりした形跡もあり、大正時代には皇太子行啓のために修復したというので、すでに原形が失われた現状からは充分な結論は導き出せないのだろうが、これもいずれピラミッドのように、長いこと墓と考えられてきたがどうやら違うらしい、といったことになるのだろうか。
 フゴッペ洞窟の南西には大谷地貝塚もあり、この付近一帯が、古来から人が集って暮らしていた地域であることに、改めてまた人間の営みの不思議さにうたれるのだ。 

▼国土地理院 「地理院地図」
43度13分2.27秒 140度51分43.82秒
ryugamMM.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2011/07/18 訪問)

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タグ:北海道
きた!みた!印(30)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

ナツパパ

すっぱりと切り落とされたような地形ですね。
海による浸食なのでしょうか。
by ナツパパ (2011-11-21 14:36) 

dendenmushi

@いわゆる専門家が言うところの「海蝕崖」ということになるのでしょうが、そういう意味では、オタモイの崖もそうでしょうし、だいたいみんなそうなのですよね。

by dendenmushi (2011-11-23 07:39) 

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