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680 襟裳岬(その1)=幌泉郡えりも町字えりも岬(北海道)襟裳は“エンルム⇒(もし化けていたら矢印です)えりも”だった [岬めぐり]

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 アイヌ語で「エンルム」は「岬・突き出た端」の意であると、前項でも書いていたが、その“えんるむ”が訛って「えりも」という岬の名になり町名になったのだそうだ。してみると、ここも様似と同じ“えんるむ岬”であったわけで、その前まで地域の古名であり郡名だった幌泉を称していた町が、有名な岬名を名乗るようになったのは、1970(昭和45)年のことである。
 しかも、後から当てた漢字の“襟裳”ではなく、ひらがなにしたのは、単に漢字が読めないだろう書けないだろうから、という理由からのみではないようだ。
 日高と十勝を分ける三角の、突端にあたる人口5,600人ほどの「えりも町」は、町役場と漁港がある三角形西側の地域が中心のようだが、東側にも町がある。
 長い間なかなか機会が得られなくて、やっとかなった襟裳岬初訪問。交通機関の便がいいとはお世辞にもいえないので、スケジュール調整には頭を悩ましたが、やはり岬に泊まって少しゆっくりしたいと考え、ネットで見た「クリフハウス柳田旅館」に予約を入れておいた。様似駅前から乗ったとき、バスの運転手さんに、「柳田旅館へ行くにはどこで降りたらよいか」と尋ねたら、「えりも市街」のバス停で降りるとすぐ前がそうだという返事。
 わざに“市街”というのには、なんとなく役場のある西側への対抗意識が感じられる。規模はずっと小さいが、襟裳といえばこっちでしょうとでもいっているようだ。
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 クリフハウスという名の通り、海から立ち上がる小さな崖の上に建っているのだが、この旅館の歴史は北海道では古いほうだ。慶応年間に当時は小越といわれていた襟裳に入植した柳田勘次郎は漁業を営み、後年の駅逓業務に携わる。1916(大正5)年に小越駅逓所が設けられたという町の記録があり、これが柳田旅館の始まりだという。
 様似のところで、米の収穫がない松前藩の家禄について書いたが、ここの和人の歴史も1669(寛文9)年、松前藩士であった蛎崎蔵人が商い場を開くことに始まり、その後はとくにコンブの漁場として人が集まり発展してきたようだ。
 1864(元冶元)年以降7年間の勇払以東の九場所の運上金記録の資料が、旅館のページにも収録されていた。東蝦夷地の日高地区では、静内・浦河・様似が合わせて2,500両に対し、幌泉場所では3,850両の運上金は、釧路をも超えて図抜けて大きかった。明治維新後に、幌泉場所は廃止されたが、開拓使の新料地となった幌泉には、特別に移民募集対策が行なわれ、明治の始めには、100戸400人が移住してきたと記録にあるそうだ。
 青い柳田旅館の一夜は、激しい風と雨であった。古い1階和室の部屋は、窓ははめ殺しになっていたが、それも風雨に対する備えであろう。
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 広い食堂には、たまたまほかの客もなかったようだが、黒い小さなアナログのテレビがあり、もうその寿命もついに2桁を切ってあと数日しかないことを、自ら告げている。
 翌朝は、雨もどうにか小降りになったが、風は止むときがない。
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 宿のフロントには、その歴史をつくってきた人々の記念写真が飾られている。「この人が、うちのひいおばあさんですよ」という女将さんは、北海道では入植地によってその後の運が開けるかどうかが大きく左右されたんですよとも言ったが、それは半ば自分に言い聞かせているひとりごとのようにも聞こえた。
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 柳田旅館の前の丘にあるのが襟裳神社で、鳥居の脇には明治時代の地震と津波の碑がある。この付近には江戸時代からの人々の暮らしの痕跡がさまざまな石碑群として残っており、町の文化財になっている。erimoA06.jpg
 それも江戸時代の石だけが風にも耐えて残ったに相違なく、明治時代の100戸400人の入植者の事績を記録するものはない。
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 クリフハウスから灯台のある岬に向かう途中には、「七軒街入口」という趣のある、いかにも主張があるらしい標識が建っている。電子国土ポータルではたくさんのグレーの長方形が記されているが、そんなには家はない。大きな道路の下には、そこにちょうど七〜八軒くらいの建物があるので、ここにもなんらか入植者の物語があるのであろう。
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 灯台のミニチュアのようなのは、えりも町内のバス停である。
 港の上には、えりも岬郵便局とえりも岬小学校とがあり、そこから北に行くと百人浜がエンエンと続いているはずだ。
 ここが、人々が長い年月かけて、燃料として原生林を切り開いて丸裸にしたことで、この岬特有の強い風によって砂漠化した岬を、クロマツの植林によって緑化し、一時は壊滅の危機に瀕した襟裳の漁場を再生するところまでこぎ着けた、という場所なのだ。
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 その話は、なぜかよく覚えていた。それは、10年くらい前に見たNHKの、なにかと物議をかもした番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の放送によるところも大きい。木を植え森をつくることと、漁業がよみがえることの因果関係が、そのとき初めて認識できたからだろう。
 その先は“黄金道路”と地図にも名がある海岸際の道が、日高山脈と太平洋の間を広尾に向かっている。その名は“金が採れたからではなく”、“金を敷き詰めるほどに建設にお金がかかった”からついた名なのだ。そこには岬がないのだが、今度は釧路から足を伸ばして通って見たいような気もする。
 岡本おさみは「えりもの春は なにもない春です」と書いたが、けっこういろいろあって、ここは岬だけでは語りきれないから、3回に分けることにした。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度56分4.25秒 143度14分33.67秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2011/07/14〜15 訪問)

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タグ:北海道
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コメント 6

シラネアオイ

こんにちは!忘れ去られた北国の寒村風景ですね!!
by シラネアオイ (2011-08-15 10:37) 

ぱぱくま

プロジェクトXのえりもの回は僕も見ましたよ。
実際に訪れてみていかがでしたか。
人の手で何でも出来るとは思いませんが、
気付く事でどうにかなるもんだなって希望も持てますよね。
by ぱぱくま (2011-08-16 00:18) 

mayumi

最果ての地、といったような、風景ですね。
アイヌ語で「エンルム」が岬ですか・・・日本語とはやはり違う出自の言語なのかしら。
ちょっと、調べてみたくなりました。

by mayumi (2011-08-16 09:05) 

dendenmushi

@mayumiさん、ぱぱくまさん、シラネアオイさん、コメントありがとうございました。
 襟裳岬は、確かに大きな三角になった半島の、先っちょで、幹線道路からも遠く離れた、ヘンピな場所です。ですが、印象としてはさほどに日本の果てのような感じはしないのです。
 それは、なんだろうと…。
by dendenmushi (2011-08-17 05:49) 

Extra-Low

こんばんは。
襟裳、良い場所ですね★
今年も行ってみます♪
by Extra-Low (2011-08-25 22:09) 

dendenmushi

@Extra-Lowさんのご専門のほうは、日高町、新ひだか町を通り過ぎただけでした。
 でも、いくらか、牧場のなかを走りました。(列車に乗ったまま)。
by dendenmushi (2011-08-26 06:09) 

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