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52 相生橋。…といえばどうしても広島を想ってしまうのだが元来はおめでたい名前なので [月島界隈]

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 川べりの隅田川テラスとその上の土手と道と、そして両者をつなぐ斜面からなる石川島公園を南に向かって通り抜けると、目の前に現れるのが相生橋である。対岸の越中島は、元は広い葦の原だったようだ。その土地に目を付けた陸軍の練兵場になっていたそこは、今ではヤマタネなどの倉庫や都営住宅が並んでいる。石川島側のテラスのふちには、鋼矢版の囲いがしてあって、水生植物の再生実験が行なわれているような形跡がある。
 越中島と月島の間には、小さな船のような形をした島が横たわっている。こういう場合のお約束のように、その名は「中の島」だが、川の中央ではなく越中島よりにあり、しかも陸と橋と島が一体になって、そこは公園になっている。
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 何の気取りもない、素朴な鉄骨の枠組みが特徴的なフォルムが印象的なこの橋は、その構造についてトラスがどうとかの説明板もあるが、しろうとの悲しさでどこがエライのかよくわからず、覚えていない。現在の橋に架け替えられたのは、1998(平成10)年のことである。
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 前にもちょっと紹介したが、月島と佃島が渡し船以外で初めて本土と結ばれたのは、この橋の開通(1903(明治36)年)によってであった。最初の橋は、もちろん木の橋で、このときは中の島も名実ともに島で、これを利用して月島側の長めの橋と越中島側の短い橋と、大小二本の橋ができたのであった。
 橋の開通と、ほぼ同時にやってきたのは水道管。でんでんむしが当時を知るわけはないので、これらはすべて月島図書館で仕入れた資料による知識と記憶であるが、東京湾にできた埋立地では、交通事情もさることながら、井戸がないので飲料水には不自由していたらしい。なにしろ、水桶を積んだ小舟が隅田川を渡って、水を売りにきたというのだから…。
 お向いさんの“本土”越中島や深川も新興の埋立地だったのだが、深川のほうはその頃は結構繁華な場所だったらしい。富岡八幡などの門前町で文字通り市をなす状況だったと思われる門前仲町から、橋の拡幅工事が終わって路面電車が線路を延ばしてきたのは1923(大正12)年。橋にもいろいろな歴史とドラマがある。
 大震災はその2か月後、燃えた船が橋に流れてきて全焼してしまう。月島は、それから3年以上もの間、またしても“離島”になってしまう。震災復興事業で掛け替えられた隅田川の橋は多いが、この橋はその第一号だった。
 石川島の先端に当たって二手に分かれた隅田川も、東の流れはこの橋までである。この橋から下流は、豊洲運河ということになるらしい。橋の袂にある川の標識は、“ここまでが隅田川”ということを、やけに強調しているように見える。
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 橋の東側、越中島には海洋大学の広い敷地があって、川寄りには帆船「明治丸」が保存されている。かつては灯台を巡回するのが仕事だったこの船は、その後は練習船として活躍した。今ではなにかの重要文化財のはずである。
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 おや? なんか変…。
 三本マストが高くそびえているはずなのに、それがほとんど目立たない。いったいどういう事情で、マストをちょん切ってしまったのだろうか。重要文化財になんちゅうことすんじゃい!
 以前は、佃側から見ても、それが高々とあったのだという証拠に、ちょん切られる前の写真も…。(“なんでも物知りの”ChinchikoPapaさんがブログでくださったコメントによると、「明治丸」は海洋大学が修理中であったが資金難になり、補修作業が中断しているとのこと。マストがちょんぎられたままになっているのはその関係らしい。)
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 「相生」という名は、地名としても全国各地にある。なかでもいちばん有名なのは、兵庫県の相生市であろうが、ここの命名の由来はかなり特殊である。なんでも「おお」が元の呼び名で、たまたま城主の海老名氏が相模の生まれであったところから、この字が当てられたという、複雑骨折のような由来による。
 神奈川県には海老名市があるので、鎌倉時代の守護地頭として播磨へ派遣された鎌倉武士の一族なのであろうが、こういう例は数多く、それがその後の日本の骨格を形成したような趣がある。当時の社会的な事情を考えると、これは相当大変な意思決定に基づく社会改革であったといえる。
 その文脈のあとで述べるには、かなり飛躍しているし、同列に論じることではないながら、民主主義の現代に生きる人間が災害を乗り越えるに思い切った手も打てず、あまりにももたもたしているようにみえてしまう。
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 この変な例を別にすると、だいたいは「相生の松」が象徴し、謡曲の「高砂」も元は「相生」であったように、夫婦が長く睦まじくあるという意味の賀字・雅語の類いである。もちろん、この相生橋も最初の架橋が大小二本の橋であったところから、夫婦橋の意でつけられた命名である。茶碗でも箸でも名刺(これだけは最近少なくなりましたが)でも、オトコが大でオンナが小と決まっていた。この頃はそれですんなり決まったが、昨今では逆の場合もあり異論も多かろう。
 広島生まれのでんでんむしは、同じ名前の広島の三角洲の中央にあるT字形橋のことに、どうしても想いが流れていくのである。
 本川という川を横断しながら、中央から南に向かってやはり中の島とも呼ばれた中洲島にもかかるその橋は、上空から見ても目立つ形で、それが原子爆弾の投下目標になったといわれている。でんでんむしの生家は、その橋から1.7キロほどのところにあった。
dendenmushi.gif(2011/05/03 記)

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タグ: 月島
きた!みた!印(32)  コメント(6)  トラックバック(0) 
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きた!みた!印 32

コメント 6

ナツパパ

相生橋の由来と歴史、本当によく分かりました。
そういう経緯があったのですね。
そして橋と一緒に水道管、も、考えてみれば必要なことですよね。

dendenmushiさんのご実家は広島でしたか。
原爆投下の際は大変なご苦労をなさったのでは?
今は原発で大揺れの日本ですが、放射線の怖さは筆舌に尽くしがたいですね。
by ナツパパ (2011-05-03 09:02) 

kawasemi

nice ありがとうございました。
ブログを楽しみ、楽しい情報の交換をしましょう。
by kawasemi (2011-05-03 20:15) 

ぱぱくま

このあいだ門仲から月島へ歩いた時に相生橋を渡りました。普段何気に見ているなじみの橋も色んな歴史をくぐり抜けてきたのですね。
by ぱぱくま (2011-05-05 12:01) 

dendenmushi

@ほんとにね。原爆や空襲や戦争も、遠い過去のことになったかと思えば、そうでもないのですね。
 人間生きているうちには、やはりトンでもなく大変なことが、一度や二度はあるらしい…ですね。
by dendenmushi (2011-05-06 05:41) 

dendenmushi

@kawasemiさん、はじめましてよろしくお願いいたします。スライリーのいる始球式で、篠田純平投手のユニを着た女性が投げている写真がありましたねえ。あれは…?
by dendenmushi (2011-05-06 05:50) 

dendenmushi

@「もんなか」という呼び方もいいですよね。月島へ向かう昔の電車道は、あんまりおもしろくないですけど。石場のほうにちょっとそれるとまたいろいろありますよ。
by dendenmushi (2011-05-06 05:52) 

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