51 消えてしまった石川島。いうなれば佃島に庇を貸して母屋をとられたかわいそうな島なの? [月島界隈]
前に石川島という島について、「いまはその名もほとんど残っていない」と48項の見出しに書いていた。というのは、佃島の北側一帯は、今の住居表示では「佃二丁目」となっている(佃一丁目は“百間四方”といわれた旧佃島の狭い範囲だけ)。今は「リバーシティ21」とも呼ばれる、かつては佃島とは別の島であった地域全体がそうなのであって、つまりは「石川島」という名は、現在の地名としてはどこにも残っていないわけである。
古くは「鎧島」といわれたこの島は、隅田川が運んできた土砂が堆積してできた中州だったのだろう。ただ、浮世絵版画にはただの砂洲ではなく、山らしきものが描かれているので、小さな島があってその先に砂洲が延びていったと考えられる。その南西側の端っこの砂洲を、おそらくは鎧島の土も使いながら埋め立て広げたのが、佃島である。将軍家光の代に、“石川五右衛門”ならぬ“石川八左衛門”が鎧島を拝領したので、そこが石川島と呼ばれるようになったのだという。石川島は、鬼平などの時代小説でおなじみの“人足寄せ場”という労役場があったことでも知られ、明治期には海軍の重要施設としての役目も果たした。
こうしてみると、佃島に庇を貸して母屋を乗っ取られたようなもので、かわいそうなのは石川島じゃありませんか。
パリ広場の突端から相生橋にかけては、「石川島公園」という名がある。高層マンションの下には「石川島資料館」がある。佃島小学校・佃中学校(これも小学校のほうが先で、あとからできた中学校は「佃島中学校」にするには憚りがあったわけであろう)の南には「石川島播磨重工業健康保険組合病院」というのもある。
今に残る「石川島」は、そのくらいであろう。ただし、病院は少し前に「IHI東京病院」と看板を変えた。石川島資料館は、ひさしぶりに覗いてみると震災後は閉館になったままであった。
その名が消えたのは、石川島播磨重工がそもそもの発祥の地であるここから撤退したことが、いちばん大きな要因になったのであろう。資料舘と病院だけじゃ、どうしようもありません。
1853(嘉永6)年に、ここに水戸藩が造船所がをつくり、これが後に石川島造船所となり、さらに1939(昭和14)年頃から造船所の主力は、豊洲に移転する。海軍がここを中心に使うようになったことと、関係があったのかもしれない。豊洲に移った石川島造船は、播磨造船と合併して石川島播磨重工業となり、現在では「IHI」が社名になっている。なんか、安売り旅行会社か電気釜みたいな名前だなあ、などといってはいけません。こっちのほうがはるかに由緒ある略称なんですからね。
メザシの土光さんも、この会社の出身であった。最後まで残っていた佃工場が閉鎖されたのは、1979(昭和54)年であった。
石川島公園には、かつてここで日本で初めて蒸気式軍艦が建造されたことを記念する標識が立てられている。
でんでんむし得意の憶測だが、石川島を消して佃に地名を統一するにあたっては、「佃島」とするには百間四方に限定されるようで抵抗があったわけで、「島」をとって「佃」とするのは、足して二で割る妥協案だったような感じもする。小学校と中学校の名前が違うのも、そうしたいきさつをしのばせているようだ。
石川島とは直接関係ないのだが、石川島散歩で時間に余裕があれば、ちょっと立ち寄ってみるとおもしろい場所がある。中央大橋あたりでついでに書いておけばよかったのだが、書き忘れていたのでここで紹介しておこう。
中央大橋の南詰め、橋に向かって右手にガラス張りの建物がある。ここは共同通信社の研修センターかなにかだが、その1Fに全国の地方紙を集めて閲覧に供しているスペースがある。
地方紙だから、送られてくるのに多少時間がかかり、その日の新聞は無理だが、全国各地いろいろな地方の新聞が見られる、これはなかなかおもしろいですよ。
(手前のテラスと茶色い椅子は、隣の中華レストランのもの)
(2011/04/29
記)
そうでした、石川島には第一第二と、二つの造船所がありましたっけ。
自衛隊の護衛艦なども造っていましたね。
by ナツパパ (2011-04-29 09:12)
@そうですね、自衛艦もたくさんつくっていますし、各地で活躍中のフェリーなんかもIHIでつくったのがあるようです。
やっぱり、華やかなのは、大型タンカーでしたね。高度成長のシンボルのようでしたから。
by dendenmushi (2011-05-03 07:02)