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46 住吉神社。全国に600もある住吉神社のひとつだが佃のはちょっとめずらしいこともある [月島界隈]

 佃島がそもそもどのようにしてできたかについては、44項でも勝手な解釈を展開していた。いまさらいうまでもなくでんでんむしはドがつくしろうとで、知っていることといえば、あちこちに公表されている情報をつなぎ合わせて、ああそうなのか、と思っているだけのことである。
 そこで、一般に言われていることでも、つじつまの合わないことや、よくわからないことが多く、そんなこんなの感想やらなにやらを取り混ぜて感想を書いているに過ぎない。
 家康と摂津佃村の関係についても、あちこちの情報をつなぎ合わせてみても、なかなか納得というところまで到達できないでいた。
 ただ、本能寺のとき説にしても、そうではないいつか住吉参詣のとき説にしても、共通するのは、神崎川を渡るときに摂津佃村の漁師たちが船を出して、家康一行を助けたということである。なぜに、大坂でも西のはずれで川を渡らなければならなかったかという点でも、源家の五公を祀った「摂津多田の廟(今の池田市の多田神社)に参詣のため」という理由が共通している。本能寺説では、実際にはそこに行かないが敵方の監視の目をくらますために、という筋書きになっている。
 このとき、佃村の庄屋だった森孫右衛門とその一族の名前が出てくる。今の大阪市の地図を見ると、なかなか興味深いのは、摂津の佃村の地理的な状況が、後に彼らが移り住むことになる佃島と似ていることだ。ちょうど前項で掲げた明治初期の東京湾の地図で南西に延びる砂洲が描かれているが、摂津の佃村もこうした川中島にあった。考えてみれば、川を渡るということは、当然対岸もあるわけである。対岸の協力もなければ、安全とはいえない。神崎川中洲にある佃村の対岸が、大和田村であった。
 この人たちが、家康に連れられて、江戸に行ったらしい。その時期については、やはり「家康江戸下向の折(家康と同時に江戸入り)」という説明が主流であるが、それにも納得いかないことも多々あるので、そんなことをごちゃごちゃ書いていたわけである。
 たまたま、でんでんむしと同じSo-net「地域ブログ」で、いつも内容のある書き込みを続けておられるChinchikoPapaさんが、これに関してご自身の見解を自身のブログでコメントしておられたので、その転載の許可をいただいた。それをまず、ご紹介しょう。

◇ChinchikoPapaさんのコメント
Chinchiko Papalogより転載)
 「再校江戸砂子」(享保年間)によれば、佃島は佃村や大和田村の漁師が日本橋小田原町へやってきたころは、安藤家の抱え屋敷が建っていたようですから、少なくとも関ヶ原の戦前後は安藤家の所領と思われ、初めて大川の“川中島”に住んだのはおそらく安藤家(と家人)の人たちですね。
 湊を含めた、本格的な築垣普請は正保元年(1644年)2月ですけれど、佃島の住吉社が建立されたのは正保3年6月29日(住吉社伝)ですから、おそらくこの普請が、攝津の漁師たちとその子孫が佃島へと移り住んだ時期とシンクロしているのではないかと思います。
 それまでの彼らは、住吉社ともども日本橋小田原町にいたわけで、佃島(この名前もまだありません。安藤島とでも呼ばれていたのかな?)は“川中島”として存在していました。小田原町に在住していたとき、彼らは盛んに住吉社の分社化活動を行なっており、安藤家を含めたいくつかの大名屋敷で勧請されてますね。それが機縁で、川中島の安藤家と元・大和田/佃村の人たちが親しくなったのかどうかまでは、わかりません。
もっとも、考古学的な発掘調査までは不勉強で押さえていませんので、古墳時代には国内最大クラスの拠点港だった浅草湊ともども、川中島(佃島)にも人が住んでいた遺跡がすでに発掘されているのかどうか・・・。有名な佃島の井戸掘りとともに、なにかの痕跡が見つかっているのかもしれません。
 親父は一貫して、子供のころから「天安」贔屓でしたが、わたしは「丸久」ファンです。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-06 11:12) 


 なるほど! と思うことがあった。日本橋は小田原町で始まった魚河岸との関連である。佃村(と川をはさんで隣村の大和田村)の人々ははじめは日本橋周辺にいたのだ。住吉神社の社伝でもまったくふれられていないことだが、それをキーワードにして探ってみると、だんだん筋道がみえてくるような気がしてきた。
 安藤家の存在も、摂津の渡し船のときから関わっていたようで、その名が「安藤対馬守の命令で漁民三十余名が江戸に出て白魚漁をはじめる」というような記録もあり、家康の意向を受けて摂津以来、佃村の担当窓口だったのかもしれない。
 神崎川を渡すのがきっかけでできた家康と摂津佃村と大和田村の縁が、それだけで終わることなく続いたのは、当初は漁業よりも軍事的な役割や戦には欠かせないロジスティクスなどの軍役面で効用があったからだろう。当然、大坂冬の陣、夏の陣でも、川筋を縦横に使って活躍したことが想像できる。そんなことがあっての江戸行きだったのだろう。江戸行きを家康下向と同時にするというのは、若干の事実もあったろうが、できるだけ古くからの関わりを強調したいという後世の思惑がからんで言い伝えや記録になっていることが多く、現に魚河岸の発祥についても同様のことがあり、時系列にならべて見ると、おかしなことが頻発する。
 江戸下向に同行したという森一族も、当時はまだ関東にはなかった漁法をもって優位にあり、幕府御用の魚を扱ううちにその残りを江戸市中で売りさばく権利を得る。徐々に魚市場の形成のなかでも大きな役割を果たすようになり、その一族のうちの一派は後に霊岸島に拠点をもつ御船手組の手先として、海賊対策の手伝いをしたかもしれない。そうして、佃島へつながっていった、ということも充分に考えられる。
 摂津から江戸に移住してきたとき、人々は自分たちの氏神様と一緒にやってきた。それはごく自然のことであった。それは、摂津では田蓑神社ともいわれ、神功皇后が三韓征伐の帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃=神崎川河口に近い中洲)で海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を奉ったとされる由緒ある神様と神社であったというから、いずれは大阪の住吉神社の流れを汲む分社であったのだろう。
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 現在、摂津の佃にあるのは、住吉神社ではなく田蓑神社である。これの名称についても家康がらみの説話があるが、神職も一緒に江戸に行ったことになっているので、そのときからすでに住吉神社だったのか、それとも正保3年以前は田蓑神社として江戸にあったのかも、どうもよくわからない。
 住吉神社は全国で600も数えられるというから、それ自体の希少性はないが、正保3(1646)年に現在地に改めてできた佃島の住吉神社は、住吉三神と神功皇后に加えて、恩人である徳川家康を祀っているのも、めずらしくはないかもしれないがそれらしいところである。
sumiyoshiJ02.jpg
 鳥居には金網で保護された住吉神社の扁額が掛かっている。これは有栖川宮幟仁親王の筆によるものだそうで、陶製の扁額というのはなかなかめずらしい。
 最も古い埋立地だった現在の佃一丁目の堀の角にある神社は、よく散歩の度に前を通っていた。別に氏子でもなんでもないけれど、この世には人知の及ばぬ存在があってほしいと思うので、あえて八百万の神さまを無視したり粗末にするという精神はない。いつも、散歩道の二の鳥居のところを通るときには、足を止めて一礼をすることにしていた。
sumiyoshiJ03.jpg
 佃の住吉さんでは八角の神輿もあるけれど、特筆に値するのは大幟であると思う。なにしろこれは安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれていて、これが佃の町内に6本も立つと、それは大変壮麗なものなのである。
 その柱とそれを抱いて支えるための木材が、堀に埋めてあることは前にも紹介した(42 佃小橋の項参照)。大幟は、いまでは3年に一度の例大祭のときにだけ掘り出して立てられる。
sumiyoshiJ04.jpg

 広重『名所江戸百景』佃島 住吉の祭


dendenmushi.gif(2011/04/11 記)

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タグ: 月島
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コメント 5

ナツパパ

住吉神社の手水舎で、柄杓を見たら寄進者のお名前が、大阪佃、とありました。
縁を感じてしまいましたねえ。
by ナツパパ (2011-04-11 08:39) 

Takesan

近くの「漆芸中島」さんでお箸を購入したのち、ついでにあたりを散策しました。

どうして、ここに住吉神社さんがあるのだろう、などと思いながら、がらにもなく神妙な気持ちになって、お参りをさせていただきました。
by Takesan (2011-04-11 09:55) 

dendenmushi

@そうですね。いまでも大坂佃と佃島の交流があるというのがいいですね。元は、いっしょだっかもしれないわけで…。
by dendenmushi (2011-04-15 06:37) 

dendenmushi

@やっぱりあそこでしたか。中島さんっていうのか。こんなところにめずらしいなあと思っていたのです。
by dendenmushi (2011-04-15 06:39) 

Takesan

中島さんのお箸を購入したのは、ある箸メーカーの販売員の方が、すすめてくれたからです。
私は、細身のお箸が好きなのですが、そのようなお箸を手作りで作る職人さんは、現在何人もいないらしく、中島さんがそのお一人だそうです。
「漆芸中島」のHP
http://www.urusigei-nakajima.com/

by Takesan (2011-04-16 08:48) 

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