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44 佃煮と佃島と。そのそもそもの由来にははっきりしないことも多いのだが [月島界隈]

 「田の字」を平たくしたような区画の中央を、佃小橋から隅田川方向に向かった突き当たりが、佃の渡しのあったところにあたる。佃の渡しについては佃大橋のところですでにふれたが、堤防の下の空地にその碑と中央区が立てた案内板がある。
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 その脇、新装改築されてモダンな店構えになった佃煮屋「丸久」の前には、北條秀司の句碑がある。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」というのは秀句とはいえないのかもしれないが、花柳章太郎とともに佃島や隅田川を愛してよく船に遊び、その結果が『佃の渡し』という新作に結実する。それが新派の舞台として新橋演舞場で上演されたのは1957(昭和32)年のことだと、その碑には書いてある。
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 1859(安政6)年の創業以来伝統の味を誇ってきた「丸久」が店を新しく建て替えたのは、古い前の建物の耐震性に問題があったためと自分のページで言っている。この店ができたのは幕末なので“佃煮御三家”のなかではいちばん新しい。佃大橋寄りの通りには元祖「天安」と本家「佃源田中屋」が並んでいる。こちらは、創業174〜200年といわれているから、それぞれ創業1837(天保8)年と1811(文化8)年。
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 佃煮が佃島の名産として始まり、それが全国的に広がるのは、参勤交代のさいの江戸土産となったためという説が有力らしい。
 では、そもそも佃島にはいつから人が住むようになったのか。
 これはもう、徳川家康が摂津佃村の漁師33人を連れてきて、ここに住まわせ白魚漁などの漁業特権を与えたのが始まり、というのが定説になっている。
 ところが、江戸にも漁師はたくさんいただろうにわざわざ摂津佃(今の西淀川区あたりとされる)から連れてきたのはなぜか(どういう理由で)、それがいつか(その時期)については諸説あって、必ずしも明確でない。
 家康と摂津佃村との関係については、その理由に言及していない情報が多いのだ。理由らしきことにふれている情報にも大きく二説あって、ひとつは「本能寺の変の直後、急きょ岡崎に引き上げようとする家康を船を出して助けたから」という説で、もうひとつは「住吉神社への参詣のおり摂津西成郡佃島の漁師が漁船で家康の一行を渡したのが縁で」というものである。
 でんでんむしなどおもしろがりは、当然前者の説をとるわけだが、これも史実かどうかの確証はない。確証はないが、こっちのほうが話としてはるかにおもしろい。『徳川実紀』で調べようとしたが、どうもよくわからない。山岡荘八の『徳川家康』を読み返しても、野伏せりや一揆の百姓に遭遇する場面や知多で船で渡る場面はあるが、佃島の話は出てこない。おそらく、なんらかの史料の切れっぱしでもあれば、山岡荘八もフィクションといえどもこれを使わないわけはないから、これもつくり話の類いなのか。
 因みに、「天安」もでんでんむしと同じ少数派の前者説である。中央区などは変なことを書いて突っ込まれても困ると、なぜかはさっぱりわからないボカシ派である。
 時期も、本能寺の変なら1582(天正10)年で明らかだが、後者説では「家康入府と同時」とするものが多いが、特定はされていない。家康が江戸に入るのは1590(天正18)年、小田原攻めの後だから、そんな多事多難な慌ただしいときに、わざわざ摂津の漁師などまで連れてくる、そんなことをするだろうか、という疑問もある。
 一説では、佃煮も摂津の佃村で家康が食して、それが気に入ったので江戸に連れてきたという、まことに無邪気なものまである。
 でんでんむしは、いずれにしても、摂津の佃村から呼び寄せたのは、家康入府時ではなく、その後江戸の町づくりが始まってしばらくしてから、旧恩に報いてやろうという余裕ができてから、と考えるほうが理屈に合っていると思うのである。
 江戸開府から佃煮屋が創業するまでには、なにしろ200年もの時間差があるのだから。
 さらに、佃島の成立も記録では1645(正保2)年に島に隣接する洲の埋め立てが終わり、その翌年に佃から奉じてきた自分たちの氏神様に東照権現を奉斎して住吉神社ができることになる。もし、入府のときに一緒にやってきたというなら、彼らはそれまで55年間もの間、佃島以外の江戸のどこかで暮していなければならないことになる。それが佃島に最初から住み着き、55年後に洲の埋め立てができて、そこに移住したということも想像できるが、そのようなはっきりした記録もないらしい。
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 こんなぐあいに、歴史の不確かなことは数多く、一般にそうだといわれていることでも、にわかに信じるに足ることは少ない。
 確からしいことは、家康以来この佃島が政権とのゆるいながらも特別な関係によって、漁業から始まって後には海運などに渡って、ある種の特権を受け、江戸の町づくりのうちでも江戸湊の形成という港湾上で意味をもっていたのではないか、ということである。

●葛飾北斎「富嶽三十六景」武陽佃島

dendenmushi.gif(2011/04/06 記)

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タグ:月島
きた!みた!印(31)  コメント(4)  トラックバック(0) 
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コメント 4

ナツパパ

あ、先日の日曜日にも、ここに行きました。
87になる父と一緒なので車で行ったのですが、あの分かり難い道も
覚えてしまいました。
値段は高めですが、我が家では日常の味になってしまい、手放せません。
お土産に持参すると、皆さんとても喜んで下さいます。

江戸開府初期には、江戸湾の魚を捕る漁師がいなかったのでしょうね。
きっと武士も町人も、目の前にある美味しい魚を食べられず困っていたのかも。
by ナツパパ (2011-04-06 08:46) 

Takesan

”佃大橋寄りの通りには元祖「天安」と本家「佃源田中屋」が並んでいる。~~~”
以前、この近くにある「漆芸中島」さんへお箸を購入しに伺って、初めてこの界隈を訪れました。

江戸幕府を構築していく上で、何かしらの役割を担っていた地域かと思うと、私自身が歴史の流れの中にたたずんでいるような、そんな気がしたような・・・なんとも言えない気持ちになっていました(少々大袈裟ですが)。

by Takesan (2011-04-06 08:51) 

dendenmushi

@ナツパパさんは、佃煮がお好きなようで…。確かに、ちょっと高い。そこは、参勤交代の江戸土産の伝統を汲んでいるんじゃないでしょうかね。
 もっと、気軽な小さなパック商品も、つくればいいのに…と思ったことがあります。
by dendenmushi (2011-04-08 06:20) 

dendenmushi

@Takesanさん、そうなんですよ。よほどTakesanのことと合わせて、この箸屋さんのことを書こうと思ったくらいなのです。
 しかし、あまりにも何も知らないので、書きようがなかった…。
 同じ店だと思うのですが、この項最後の写真の右側の少し奥のほうに、古めかしい建物があって、伝統工芸師の看板がかかっています。
by dendenmushi (2011-04-08 06:25) 

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