05 大震災の慰霊碑。橋の袂でひっそりと「横死」の二文字がとくに胸を打つ [月島界隈]
月島橋の袂、遊歩道の入口を入ったところに、石塔が立っている。その文字は、「大震火災横死追悼土塔」とある。「之」ではない、シャーロック・ホームズの“踊る人形のような字は「土」としか読めまい。”東京じゅうが火に包まれた関東大震災のとき、月島で亡くなった人の慰霊碑なのだが、昔はここに土の山(土まんじゅう?)があったのだろうか。
毎年、防災の日になっている9月1日には、この日の前に小さなテントが立ち、花や供物が供えられ、線香が焚かれる。
10万人を超える人が犠牲となり、44万戸の家が焼けた未曾有の大災害。「横死」という二文字が胸を打ち、やりきれない思いを抱かせる。
いつだったか、月島図書館で見た資料では、この島の被害も相当なもので、くまなくなめるように回る業火に、木造の長屋は焼き尽くされたようだ。月島に限って言えば、大空襲のときには焼夷弾の被害はほとんど受けていない。一説によると、隅田川を挟んで対岸の明石町にあった外国人居留地を避けたためだというが、果たしてどうであろうか。
東京では関東大震災と東京大空襲の二度同じようなことがあり、広島の原爆のときにもやけどを負い火に追われた人々は、生きる望みを託して川に向かう。だが、そこは決して命を助ける場所ではなかった。
(2011/01/12 記)
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タグ:月島
水を求めて 川に・・でも 川は
熱かった んでしょう・・
こういう歴史は 風化させてはいけません
おばあちゃんの 兄は 遺骨も ないまま
墓に眠っているのです
戦争体験ない世代が増えましたが
現実に 地獄は あったのだから
忘れてはいけない・・・出来ごとです
by みうさぎ (2011-01-12 07:02)
ご訪問 & nice! 有難うございました。
by センニン (2011-01-12 21:27)
@みうさぎ さん、(というとトシオンナ?)でんでんむしの父も白い箱で帰ってきましたが、中には紙ッ切れがぺろ〜んと入っていただけでした。
歴史を風化させないためには、とにかく折りあるごとに繰り返し語ることだと思います。
by dendenmushi (2011-01-13 06:59)
@センニンさん、現在「地域」の新着リストから、ランキングにないところを訪問中です。いろいろ新しいブログをみるのもおもしろいですね。
フルートは、一見優雅そうにみえて、実はなかなか…でしょうね。
by dendenmushi (2011-01-13 07:25)
対岸の聖路加病院等、キリスト教系だから攻撃ポイントから外したそうですね。
戦後GHQが撮った近辺の映像をドキュメンタリで見た事がありますが、見事によけて爆弾落としてるんでびっくり。
隣の江東区なんぞは被害が甚大でしたが、結局は町工場で
軍関係のモノをこしらえてたからと聞きます。
月島は不便なところでしたし、江東区ほど軍のものを作る
町工場もなかったと聞きました。
余談ですが私のお婆さん。当時既に佃に住んでましたが、空襲当時江東区から命からがら逃れて隅田川で傷付き倒れてた男性を介抱したとか。
それが二度目の旦那さんだそうで^^;
ちなみに1度目の旦那さんは関東大震災でお亡くなりに。
婆さん自体は99歳まで生きたのですが、昔の東京の話とか聞いてみたかったですね。
生の声じゃないとわからんですから。
by 路じうら小僧 (2011-11-09 07:59)
@路じうら小僧さん、東京大空襲で月島が焼け残った理由は、後付けでいろいろいわれていますが、アメリカ公使館などがあり外国人が多くいた(明治からの居留地だったので)ため対岸の明石町を避けたため、というのは幾分か真実を含んでいるのでしょうね。
月島一丁目の再開発は、アイマークタワーと清澄通りの間でも、新たに始まったということですね。
それで、最近もまたこの辺の項目が、よく見られているような…。
おばあさんの話、よく聞いておけばよかったですね。
そういうことは多いので、でんでんむしは年寄りの話をよく聞いてみよう、そして聞き書きを残そうと提言もしているのです。
by dendenmushi (2011-11-11 08:19)