629 弁天崎=北津軽郡中泊町大字小泊(青森県)本州日本海側最北端の港と砂丘にできた村 [岬めぐり]
旧小泊村の中心は、半島の付け根の北側にある。そこから、東へ小泊港が伸びていて、その西端の突堤を越えて、岩磯のなかに設けられた波が洗う岩の道(ところどころコンクリートで補ってある)を進むと、弁天崎に至る。
弁天崎は、小山の島が陸続きにつながってしまったようなところで、その名にたがわず山の頂には弁天社が祀られているようだ。そこまでは行かず、途中の岩壁に穴の小さな社で間に合わせることにした。
島の上の社との関係は不明だが、山の上に少し登ったところにも社があるので、この岸壁に設けられた社はその神社の出張所(?)なのだろう。
弁天崎の沖に頼りなく霞んで見えるのは、北海道松前郡松前町の大島と小島であろう。このほとんど無人島に近い?ふたつの島には、合計11もの岬がある。“原則として島は後回し”というでんでんむしの岬めぐりで、そこに行ける可能性はきわめて少ない。
島をつなげた平地のところには数戸の建物もあるが、この先半島を西へ進めば小泊岬の北灯台までは人家もなく、道も山道を4〜5キロ歩かなければならない。
そこを権現崎とする説もあるようだが、この日泊まったのも“民宿権現崎”。小泊の漁港のすぐそば、後ろには柴崎城という城があった稲荷山に続く山塊を控えた場所にある。
つまり、安東氏が南部氏との抗争に敗れて市浦から逃げ落ちるときに、いったんはここまで後退した最後の砦となったわけである。
民宿権現崎には、廊下や階段の壁に、小泊村時代のものと中泊町になってからの両方の観光ポスターが張りめぐらしてある。前項で書いていた権現崎ポスターは、“なかどまり”のものだった。
小泊の漁港は、比較的大きくて、岸壁が二重になっている。ここは、本州の日本海側では最北端の港である。
集落も小泊が日本海側最北端かといえば、それはちょっと微妙。なぜなら、龍飛崎の南部にある龍浜(青函トンネル記念館の下の方)を集落とみるかどうかで変わってくる。そこには行ったことがないので、なんとも言えない。
ここまで来たら、是が非でも行ってみなければならないところがある。そう、太宰治が越野たけを訪ねてきた小学校だ。なんでも、今ではそこに銅像までできているという。
別に大宰のファンでもなければ、作品でさえ小物を少々読んだくらいで、代表作はほとんど敬遠してきた。そんなでんでんむしが騒ぐことではないのだが、小泊ではほかに行くところもない。
集落の北の方、小高いところに位置する小学校は、わりと大きな校舎と体育館まであって、その間を抜けて石段を登ると、開けたグラウンドがあった。こどもたちが野球をやっていたそこが、大宰が訪れたときに運動会が開かれていた場所なのだろう。
『津軽』の後段では、その模様を描写しているが、そこで気になったのが、“掛小屋”と“砂丘”および“砂山”であった。「運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび」ということから、運動会を見物するのに掛小屋を建てるという習慣があったらしい。
現在でも、小学校の運動会には、いくらかその雰囲気を残してはいるが、でんでんむしのこどもの頃は、それは一家総出で重箱に詰めたお弁当と敷物(ござ)をもって出かけなければならない一大イベントだったが、その昔は小屋までつくっていたというわけだ。
“砂丘”は国民学校のある場所の説明に使われているし、最後にたけが修治を誘うのが八重桜のある“砂山”で、そこで彼女は「堰を切ったみたいに能弁に」なるところである。
小泊の成り立ちが、砂丘の上にできたということだろうし、現に小学校の北には砂山という小字名を持つ場所がある。
運動場を見下ろす丘の上には、立派な“小説「津軽」の像記念館”まであって、その前庭に、銅像があった。
よくよく見ると、この銅像は『津軽』の二人が並んで運動会を見ている場面を、たけの右まぶたのホクロにいたるまで忠実に再現している。
なんでもそうだが、「有名」というのはスゴイことではある。短い小説の一部に書かれたというだけで、こんな本州の北のはずれに、こんなものができてしまう。また、それを見にやってくる人間がいる…。
▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分14.79秒 140度17分13.27秒
東北地方(2010/06/30 訪問)
タグ:青森県
大変勉強になりました。 安東俊幸
by 安東俊幸 (2011-02-04 07:01)
@安東俊幸さんは、安東氏の子孫にあたるわけですね。でんでんむしは、安東氏には昔から興味を持っていました。
すでに見ていただいたとは思いますが、この項目に至るまでの津軽の岬めぐりでは、十三湊を中心として、安東氏の遺跡を辿る旅でもありました。
安東氏ブログ、がんばってください。
by dendenmushi (2011-02-05 07:16)