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番外:十三湊遺跡=中世港湾都市の面影を尋ねて(青森県五所川原市十三) [番外]

 十三湊(とさみなと)は、近頃では「じゅうさんみなと」と読んでもくるしゅうないということになっているようだ。どうやら、シジミが特産の汽水湖である十三湖のほうが「じゅうさんこ」であるのに、引きずられているらしい。
 その十三湖を東にして、西に前潟という細長い入江と砂丘と日本海が広がる、幅わずか500メートルほどの砂地の真ん中に、十三湊遺跡はあった。あったといっても、今あるのはその看板や説明板くらいのもので、周辺は全部畑になっている。
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 亀ヶ岡から北に走ってきた小さな弘南バスが集落に近づいてきたので、さてどこらで降りようかと思っていると、その窓から看板が眼に入った。あわてて次のバス停で降り、引き返してきた。
 現在の十三の集落は、十三湖とは反対の前潟寄りの街道に沿って並んでいるが、砂地の真ん中を広い道が通っていた。すぐ北ではもとの街道沿いの道につながるので、集落の中の交通混雑を避けようというバイパスのようなものらしい。
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 とはいっても、車が通ることはまれで、自転車に乗ったおばさんが自分の畑に通う。畑の土はもちろん砂地なので、土が飛ばされないようにという配慮もあるのであろう。畑には、それぞれさまざまな囲いがしてあった。
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 そんなところから、中世の港湾都市の遺構が見つかっていた。そうか。日本の歴史のなかでも、異彩を放っている安東氏の十三湊は、こんなところにあったのか…。
 昔から興味をかき立てられ、シロウトなりにそれはどんなところなのだろうと、イメージを膨らませていたので、その地にいま立っていると、きわめてひとりよがりな感慨が湧いてくる。
 13世紀から15世紀というのは、関東武士が全国各地へ散らばっていって、それぞれの地でそれぞれが実効支配を固めていき、豪族や大名の卵にのし上がっていく時代だといえる。もちろん中央の政権をめぐっても、南北朝から足利幕府へと動乱が続く頃でもあった。そんな時代に、ここに一大交易都市(都市が大げさならば拠点でもいいが)があった、そして日本沿海や蝦夷地はもとより、日本海を縦横に往来して大陸や半島と貿易をしていたというのは、ちょっとした驚き以外の何ものでもなかった。tosaminato04.jpg
 まとまった発掘調査が進んだのは比較的近年のことで、その成果の一部は十三湖の中で松林に覆われ、一本の木組みの橋でつながっている中の島にある市浦歴史民俗資料館に保存・記録されている。国の史跡指定を獲得したのは、今からつい5年ほど前なのだ。
 では、なんでそれが「市浦」なのか。「しうら」は、2005(平成17)年3月以前は、十三湖の周辺一帯を村域とする、独立した村だった。金木町とともに、新しい五所川原市に加わった。それで、遺跡の看板、説明板、マンホールのフタ(シジミとこれは砂山の踊りか?)も、まだ「市浦村」のままだったのだ。この資料館もそうなのだ。
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 五所川原市になったからとて、あわてて変える必要もない(お金もかかるしね)が、これだけみるならば、もう5年もそのままなわけは、五所川原市にとってはそれどころではない、といったところか。〝それなら、わざわざ飛地になってまで五所川原市にならなくてもよさそうでは?〟というのは、他所者の勝手な感想であろう。
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 十三湖大橋を渡って、大きな松林の中を歩いて中の島へ向かう。十三湖の北側にも、城跡や各種の遺跡が点在する。旧市浦村の領域でも、海岸に近いところには縄文遺跡がある。でんでんむしがそんなことに興味を持ち始めた頃には、誰もそんなことを教えてくれなかったが、三内丸山遺跡をはじめとして、いまや青森県を抜きにして縄文は語れないらしい。
 それにしても…と思うのは、昔の津軽は今ほど冬の寒さも厳しくなかったのだろうか…。
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 次の小泊へ行くバスまでは、だいぶ間があるので、ゆっくりのんびりと資料館を見学し、湖の水面をぼんやりと眺めて、往時のさまざまな時の流れに想いをはせる。
 どんな氏族でもそうだが、そのルーツの源泉は、深い時間の底に沈んでいて、浮かび上がることがない。安東氏もそうで、確かなことは少ないが、伝説としてはナガツネヒコやアラハバキ(亀ヶ岡の土偶はその姿だとする説もある)を経て、安倍貞任につながるという。前九年の役で敗れた貞任の遺児が津軽で安東氏を起こしたのだといい、一時期は蝦夷までその勢力が及ぶが、その後がまた波乱に満ちている。結局、南部氏との抗争に敗れてしまい、その後は秋田へ移って秋田氏の祖となるというのだ。
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 この木の橋を渡るのも、これが二度目である。
 十三湊の港湾拠点としての機能は、江戸時代までなんとか維持されたようだが、だんだんと岩木川の堆積が進んで、やがて湊としての命を終えてしまう。
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 市浦歴史民俗資料館は、五所川原市になってから印刷したパンフレットでも、その名前は変わっていない。それも当然であろう。名前といえば、前にどこかで“ここへきてみたら安東氏のことを安藤氏で統一してあったのでちょっと残念な気がした”、と書いていた。
 これには資料館にも名分があるようで、残された資料によると、「安藤氏」と「安東氏」は同じではあるが、前期の資料では「安藤氏」の表記が多く、秋田時代など後期になると「安東氏」の表記が多くなるのだそうである。したがって、十三湊を語るには安藤氏で統一した、ということのようだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度1分41.56秒 140度19分45.57秒
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dendenmushi.gif東北地方(2010/06/30 訪問)

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タグ:青森県
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