600 松ヶ崎=舞鶴市字泉源寺(京都府)舞鶴湾でもうひとつある松ヶ崎は自衛隊の中に [岬めぐり]
東のほうから、霧の塊がゆっくりと広がってきた。小浜湾でひとつ、舞鶴湾では二つ目となる泉源寺の松ヶ崎のバックは、徐々に白く塗られていく。
その霧の中に包まれようとしている引揚記念館ができたのは、22年ほど前のことだというから、意外にも思ったよりも新しい。このこともまた、問題の複雑さを思わせる。
バスの運転手さんのいう通りで、訪ねてくるのは引揚経験者や戦争の体験をもつ高齢者ばかりで、当然その数は年々減少している。それを反映して、入館者の数も1991(平成3)年の20万人をピークとして減少している、と舞鶴市のホームページに書いてあった。
そして、今年(2010)から、有識者や引揚関係者で構成する「舞鶴引揚記念館あり方検討委員会」を設置し、引揚記念館の今後のあり方や活用方策について検討を始めるという。
だいたい、この「有識者」というのがクセモノなのだ。そのあり方を検討したほうがいいくらいだが、そっちのほうへ話がずれると、キリがないうえに、どうしても下品になるので、それはやめておこう。
記念館のある大波下の南には日本板硝子の大きな工場があり、そのさらに南の愛宕山を巻くようにして桜並木が東港の海岸に沿って続く。愛宕山の南下には、自衛隊の施設が広がっている。小浜湾でもひとつ、舞鶴湾ではふたつ目になる松ヶ崎は、その敷地の中に取り込まれてある。
当然立ち入りはできないし、桜並木のほうからも見えない。したがって、ここは東港の岸壁から見るしかない。
帰路、バスの運転手さんにその旨を伝え、どこか埠頭に近い適当なバス停でというと、他に乗客もいないしこれから駅まで乗る人もいないからと、この岸壁のそばで臨時停車で降ろしてくれた。
そこは、フェリーが発着する前島埠頭と、自衛隊施設の間の四角い港内で、真正面に松ヶ崎がある。そして、遠く4キロほど先には、舞鶴クレインブリッジと大浦半島の山が背景となっているわけだ。
男子のエイトや女子の舵付きフォアのボートが、桟橋に次々と戻ってきて、引き上げられ、担ぎ上げられてくる。舞鶴東高の漕艇部の部活の現場に遭遇したようである。波のない湾内は、絶好の練習場になる。ボートも見た目には、ほんとにスイスイと気持ちよさそうだが、なにごともレースともなればそんな長閑で甘いものではない。
もともとスポーツマンではないし、自分でやらなくても、ヤジウマ的興味でたいていのものはチェックを入れている。ボートはかなり昔に読んだタイトルも何もわからない短編が印象に残り、それでひとつ世界をつくっていたが、縁者が一橋大学の漕艇部に入ったときに、その世界の理解はいっそう膨らんだ。東商戦と呼ばれる東京大学との対抗戦に、現役だけでなくOBまで加わった熱気と、強烈な対抗意識でできあがっている世界は、ただのボートレースではない。
どんな競技でもそうだが、結果だけみると、大差にしろ僅差にしろ、どこであのような差がつくのだろうかと思う。それがまた、個人技でない団体競技のおもしろさにつながる。
運ばれていくボートの下の松ヶ崎には、やはり桟橋のような構築物が長く突き出している。
これは、自衛隊のカッター揚陸場らしい。空母の甲板のように見えるのは、カッターを釣り上げて並んでいるアームの列だった。
湾の北の霧はどんどん延びていき、三本松鼻近くまで流れていった。
高校生たちがボートの手入れをしている後ろには、低い丘がでこぼこしているが、その向うが市役所やユニバーサル造船がある東港になり、その西にはまた自衛隊の大きな施設が展開する。
舞鶴は、また海軍の街でもあった。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分5.29秒 135度23分43.91秒
北信越地方(2010/06/08 訪問)
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