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□10:教室で作文を先生にほめられて一生の道が決まるということはないにしても… [ある編集者の記憶遺産]

 当時、小学校で「綴り方」といっていたのか、それとも「作文」といっていたのか、それもよくわからない。『綴り方教室』という映画もあったような気もするが、そのこととも直接関係ない。
 小学校の4、5年生の頃だったと思うが、自由題の作文を書いてくるようにという宿題が、クラスの全員に出された。…と書いてみて、ふと思う。それは記憶違いで、あれは宿題ではなく、教室のその場で授業時間内に書いたのではなかったか。そんな気がする。
 自由題で書けといわれ、すぐ思ったのは、当時家で買っていたなかよしのネコだった。現在ではあまり見なくなった黄味がかった茶と白のだんだら模様のネコのことは、いつも一緒だったから、いくらでも書くことは浮かんでくる。それを題材にして、「ネコのミー」という作文を書いて提出した。
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 数日後の国語の時間に、一人だけ指名されて、先生がその作文をたいへん褒めてくれて、みんなの前で自作を読み上げるようにという。いくらぼんやりでも、そんなことができたのはクラスで後にも先にも自分唯一人だけだったとなれば、いかに誇らしいことかは理解できる。
 ただ、それだけのことだったが、そのことがその後の自分の人生をなんとなく規定して、流れをつくり始めた最初のひとこまではなかったか。
 後で思えば、そんな気もするのであり、薄ぼんやりした小学校時代の、最も輝かしい瞬間だったともいえる。
 よく、自分の一生を決めた先生の一言とかいうのがあるけれど、現実にはそれらはすべて後からそういう理屈をつけて、自分自身を納得させるためのものである。
 この場合もその類いなのではあろう。もちろん、それから勉強が好きになったとか、大人になったら何になろうという目標ができたわけでもなかった。
 そのときの、先生が誰だったのか、それももはや遠く消えかかっている。確か、“長谷川先生”のときだったろうか。毎年最下位争いをしている広島カープという2リーグ制で新設された田舎貧乏球団の屋台骨を支えて、大車輪の活躍をしていたエースが長谷川投手であった。長谷川先生もそれを意識していた。長谷川投手は「小さな大投手」といわれたくらい小柄だったが、長谷川先生は長身で、教室で騒ぐこどもがあれば、短いチョークを、そっちへ向けて「ピッチャー長谷川、投げました!」といって飛ばしたりしていた。
 新聞を見ながら、勝率や順位変動などをグラフにして机の前の壁に貼っていたのも、この頃だったろう。ところが、こんなやりがいのない作業が、そうながく続けられるわけがない。世の中には、どうしようもないことが多いものだと、こどもなりに納得した。順位が上がらないなら、あとの目標は今でいえばさしずめ “GIANT KILLING”ということになる。
 強いて言えば、でんでんむしの「判官びいき」的、「アンチ寄らば大樹の蔭」的へそまがり思想の原点は、ここらへんだったのだろう。
 野球を教えてくれたのは、税務署に勤めていて、職場のチームではキャッチャーをしていたという叔父であった。プロ野球を観に、広島の観音町にあった県営球場まで連れて行ってくれたり、スコアブックのつけ方を教わった。それがおもしろくて、ラジオ中国の野球放送を聞きながら、スコアブックをつけたりしていた。
 遊びでする野球は、もっぱら三角ベースで、それもあまりゲームにはならず、交互に打つのと捕るのとを繰り返すことが多かった。空地が狭いので、ホームランを打つと山の薮の中に入ってしまい、そうなると一個しかないボールを探して時間の大半がつぶれてしまう。なので、ホームラン厳禁。
 絵がうまいとは自分でも思わなかったから、写生大会で入賞したのには本人が驚いたが、賞状をもって帰ると、そこに書いてあった広島市教育長かなにかの表彰者の名前をみて、今度は叔母たちが驚いた。その名の人物こそでんでんむしの父や母が小学校で習った担任の先生の名前だった、というのである。
 そのときには、まだそれがピンとこなかった。
dendenmushi.gif(2010/07/27 記)

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