568 松ヶ崎=小浜市泊(福井県)内外海半島の北側海岸が「外面」なので… [岬めぐり]
松ヶ崎は、小浜湾口東の久須夜ヶ岳のある半島の端で、それと対峙して西には大飯の大島半島の先端、鋸崎がある。だからここから先へ行けば、小浜湾を出たことになる。だが、湾を出たと思えば、そこは今度は若狭湾なのである。ただ、その湾は越前海岸と丹後半島を区切りとする広大な海域なので、ほとんど外洋といっていい。
その地形というか海景というかを、昔の人は航空写真もGPSもなくても、ちゃんと意識していたようなのである。
久須夜ヶ岳の半島には、内外海(うちとみ)半島という古くからの名前もある。この名は、現在の小浜では小学校や郵便局の名前にはあるにもかかわらず、地図に残る地名としては表われることがない。ここがどうだったのかは知らないが、こういったところにも、住居表示で全国的に古い地名をまとめて大雑把に抹消してしまったことの禍根が残されているのではないか、という推測もできる。
この内外海半島には、エンゼルラインという観光道路が久須夜ヶ岳山頂下の展望台まで通っているというが、人が住む集落は、若狭、仏谷、堅海、泊という四つが南部に若狭湾に面してあるきりで、それらを結ぶ道路が一筋だけある。
つまり、それ以外は、まったく人が入ることもない山地と、岩だらけの海岸が取り巻いているだけ、ということになる。おそらく人が立ち入らないこの半島も野猿の国なのであろう。
山の中にこそ人は入らなかったが、海のほうはかなり古くから開けていて、船の往来もかなりあったようだ。この半島の北西面、松ヶ崎から北にかけての一帯を、「若狭蘇洞門」と呼んで、人々が興味を示すようになったのは、いつの頃からなのだろうか。
もともとはこの一帯の海岸のことは、「外面(そとも)」と呼んでいた。ということは、小浜湾の内湾のほうが「内面」で、それに対する外面だったのである。内外海半島とは、その内と外を仕切る半島として意識されていたことになるのだ。
そして、「外面(そとも)」が「蘇洞門(そとも)」という漢字を当てられるようになったのは、江戸時代のことであるらしい。
江戸中期の地誌『若狭国志』には「蘇洞門」として、ここの海岸美のすばらしさが紹介されているし、『小浜城下蘇洞門景観図』には、今に引き継がれている奇岩、洞門、滝などの名が示されている…と、切符といっしょにもらったリーフレットに書いてあった。
松ヶ崎は双児崎とともに、港を出たところから見通すことができる。堅海と泊の集落を横目に眺めながら、松ヶ崎まで北北西に進路を保ってほぼ一直線に走ってきた遊覧船は、ここで向きを北東に変えてからスピードを落とし、岸に寄っていく。
そこに展開する岩と海のせめぎあいは、まさしく岬めぐりの真髄の一端を表わしている。その景色は、かつての大動脈であった日本海航路、北前船など多数の交易船、外国船が出入りを繰り返すなかで、大勢の人々に認められる景勝になっていったのだ。
現在も、若狭湾国定公園に指定され、蘇洞門めぐりは若狭観光の重要ポイントになっているらしい。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度32分44.35秒 135度41分22.04秒
北信越地方(2010/06/05 訪問)
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