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番外:柏原と小林一茶記念館=上水内郡信濃町大字柏原(長野県)一茶の句であなたが好きなのは? [番外]

 信濃町の野尻湖から隣町の飯綱町の牟礼の間は、長電バスが走っており、これが途中黒姫駅を経由する路線だが、黒姫止りのバスも多い。日に13便もあるので、野尻湖観光には比較的便利である。
 バスの運転手さんが、走り出すなりどこからきたのかと問いかけてきた。例によって、ほかに乗客はいない。「この辺りも、昔はもっと賑やかだったんだけどねえ。今はもうすっかり淋しくなってしまった…」と、いかにも申し訳なさそうに言う。確かに、野尻には店も数軒あるにはあるが、営業しているのかいないのかわからない。「この辺りの人は、今は主に何を仕事にしている人が多いんですか」と聞くと、まるで答案を用意していたかのように、その運転手さんは解説してくれた。
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 それによると、かつては付近の山々から伐採される木材の加工集積場として繁栄したし、周辺にいくつもあるスキー場も多くの人を集めていたし、野尻湖へ来る観光客も多かった。しかし、それらも年々減少している。町では、工場誘致で就労人口の確保を図ろうとしてきたが、それも進出企業の規模縮小などもあって、期待に応えるほどうまくはいっていない。古い伝統の地場産業である信州打ち刃物も、地域経済を支えるほどの力はない。
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 黒姫山のスロープとその下の谷筋で、わずかに農業が息づいているくらいでは、やはり若い人は都会へ出て行くしかない。
 日本中の地方は、どこもほぼ共通した課題に直面している。
 「ところで、一茶記念館へ行くには、どこで降りればいいのですか?」
 そういうと、親切な運転手さん(こういう場合、ほぼ85%くらいは親切である。これは日本のとてもいいところだ。)は、黒姫駅から電車に乗るのであれば、まず役場のところで降りて一茶の旧宅を見て、それから記念館まで戻って、そこから駅へ歩くのがよいと教えてくれた。
 では、時間もあることだし、せっかくだから当初はスルーするつもりだった一茶の旧宅とやらも、ついでに見て行くことにしよう。なにしろ、こどもの頃に初めて接した俳句のなかで、とにもかくにもわかったのは一茶の句だけだったのだから…。
 小林一茶についての知識は、その昔教科書で習った程度のことでも、その詩情と身のまわりの動植物に注がれる暖かなまなざしの句のいくつかには、人並みに興味があった。そこで、その一茶が信濃の人だということも、江戸にもいて結構あちこち旅もしていたということも、複雑な家庭環境であるうえ本人も尋常の暮らしではないということも、親族との間で遺産相続その他をめぐる骨肉の闘争をしたということも、それでも最後は終の住み処を故郷に求め得たことも、いちおう知ってはいた。だが、それが信濃のどこだったかまでは、茫漠としたままで過ごしてきた。それがここだったとは、野尻湖の岬めぐり計画で地図を見て、初めて気がついたのである。
 なるほど、ここは柏原。今では駅名が「黒姫」に変わっているが、昔は「柏原」だった。一茶の故郷とは、まさにここだったのだ。
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 一見のどかな田園風景が広がるが、時候のいい季節にちょろっとやってくる観光客には、その地域の冬の厳しさはわからない。黒姫駅の片隅にある赤いラッセル車でも、それは想像される。そのことは、越後の『北越雪譜』について書いた、291 角田岬=新潟市西蒲区角田浜(新潟県)越後の冬も雪も知らずしての項目でも触れた。
 一茶自身も、『おらが春』ではこんなことを書いている。
 おのれ住る郷は、おく信濃黒姫山のだらだら下りの小隅なれば、雪は夏きえて、霜は秋降る物から、橘のからたちとなるのみならで、万木千草、上々国よりうつし植るに、ことごとく変じざるはなかりけり。
     九輪草四五りん草で仕廻けり

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 一茶の旧宅というのは、焼け残った土蔵のことで、それがきれいに修復されている。一間の土間に囲炉裏が切ってあり、ござを敷いただけの窓もない土蔵が、それであった。なにか、きれいになっている分だけ違和感が吹っ切れない。
     これがまあつひの棲処か雪五尺
     我里はどう霞んでもいびつなり

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 記念館は、一茶の墓と俳諧寺のある丘の斜面にあったが、これもバス通りからは行けず、大回りして行かなければならない。その通りを記念館をめざして上って行くと、小学唱歌『村の鍛冶屋』の碑があった。なーるほど。あの、しばしもやまずに槌打つ響きは、信州打ち刃物の鍛冶だったのだ。想像もしていなかった、思いがけないうれしい“発見”である。
 信州打ち刃物は、日本古来の日本刀の技術を鎌や鉈などの日用刃物で、こういうのは信州のみの特産ではなく、全国各地にそれぞれの地場に根ざしたものがある。今では、どこにも鍛冶屋らしいものはないが、祖父が関係者だったというこの辺りの旧家らしい若月さんという人が、この詠み人知らずの唱歌に関する情報提供を呼びかける趣旨で設けたコーナーだった。
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 記念館の上のそば屋はもう誰もいなくて、信濃のそばは食い損ねたが、記念館名物らしいネコ館長もちゃんと出勤して館内にいた。一茶に関する資料記録は、かなりたくさん残っているので、収蔵展示物も多い。
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     盥から盥にうつるちんぷんかん
 一茶は、“俳聖”といわれる芭蕉とは対照的な面があり、常に世俗の垢と波のなかで揉まれ、己の我執と物欲とももがいた人である。資料記録が残っているのは、ひとつにはそのためであったかもしれない。また、一茶自身も当時の感覚からするとかなりの変わり者であったらしい。50歳過ぎてまだ20代の妻を迎えた喜びのなかで、愛妻を抱いた回数まで克明に日記に記録するような人であった。(これは、記念館ではなく、相馬御風の『一茶と良寛と芭蕉』という本に「七番日記」などの紹介がしてあり、それで知れる。)
 しかし、そうした妻や子に対する人間的な愛も、それぞれ早くに死別するという試練に遭わなければならない。
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 世間では、“すね者”として通っていたというが、へそまがりでんでんむしなども、なんとなしにそれもわかるような気もするのだ。“なぜ「でんでんむし」なのか?”で触れているが、それと同様の意味のこんな句もある。
     足元へいつ来たりしよ蝸牛
 数ある一茶の句で、自分が知っているものは少ないが、それのなかではどれがいちばん好きな句としてあげられるだろうか。
     春立つや愚の上に又愚にかへる
     露の世は露の世ながらさりながら
     ともかくもあなた任せのとしの暮

 そういうのもいいが、やはり有名なこの一句かなあなどと考えながら、黒姫駅に戻ってみると、誘致した企業の工場広告看板もあるホームには、なんとその句碑が立っていた。
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 おそらく、近頃のとくに都会の子はハエなど見たこともないのかも知れない。衛生意識と環境は、著しく進歩したが、おかげでこの句のもっている、なんともいえないおかしみや諧謔が、実感としてわかる人間がいなくなりそうだというのが、ゲームのようにして、一対一の真剣勝負のように蝿叩きを振り回していたこどもの頃の自分とだぶらせて思うのである。

▼国土地理院 「地理院地図」
36度48分31.76秒 138度11分58.93秒
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dendenmushi.gif北信越地方(2010/05/22 訪問)

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タグ:長野県
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