552 上竜頭岬=高知市浦戸(高知県)有名な銅像にかすんでしまってはいるが… [岬めぐり]
坂本龍馬のことは、その死後16年の間、ほとんど世間から忘れ去られていた。というより、当時の情報というものを考えると、その存在と活動さえ世間一般にはまったく知られていなかったといってよい。
共にその時代を生きた人で、周辺にいて関わりを持った人は別だが、そのうち時代の変わり目の波に乗って栄達した人々は、わが身を誇ることはあっても、龍馬という人間がいたことを、忘れてしまうか知らないふりをするほうが都合がよかったという一面があったのだろう。
その結果、維新後に明治政府が行なった論功行賞リストにも、龍馬の名はあがらなかった。
NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、その開幕冒頭で豪奢なパーティ会場で岩崎弥太郎に、一人の新聞記者が「坂本龍馬のことを聞きたい」と迫るところから始まった。そして、以後このドラマは、「わしは龍馬がきらいじゃ」という、弥太郎の語りによって進行していくことになる。
龍馬のことは明治16年に高知の地方紙に取りあげられて、初めて大いに評判になり、みんなが知るところとなったので、これは史実に基づいたものなのか。その8年後に、遅ればせながら明治政府は正四位を追贈するが、龍馬人気を決定的にしたのは、日露戦争のときで、皇后の夢枕に立ったという話がマスコミによって全国に広められたためである。
マスコミの報じ方が世論や世の中のムード形成に大きな影響を与え、やりようによっては操縦誘導できるという事例は、この頃から始まっていたといえる。
龍馬像の前では、ふた組の団体観光客が記念写真を撮っている。その一人が、写真屋や小旗をもったガイドが、これまで何百回聞いたであろうセリフをいう。それを黙って見下ろしている龍馬は、中岡慎太郎の像がある室戸岬のほうを向いているといわれるが、とにかくやたらでかく見えるのは台座が高いせいである。
大正の末期に地元の青年たちが運動を始め、昭和3年に完成したこの銅像は、その後も二度にわたってやはり全国の青年有志の努力で、補修維持されてきたのだという。金属不足に喘ぎながら戦争を続けていたときには、学校の二宮金次郎像やお寺の鐘まで供出させられたが、この像は無事だったそうだ。
この銅像が立っているところから、東に続く砂浜の先が、上竜頭岬である。岬といっても、丘もないので高度もなければ、草木の一本も生えていない。岩と花崗岩で組んだ堤防と砂浜だけの、一見貧相な、岬ともいえない岬である。
ということは、地図ではこの岩のところに岬名が表示されてはいるものの、それは岬の名は海の上に表示するしか方法がないためで、もともとは銅像が立っている丘そのものが、上竜頭岬だったのではないだろうか。
現状では、丘と岩の間はかなりの間隔が開いているので、これをあわせてひとつの岬として認識することはむずかしいが、下と上とセットになったふたつの竜頭岬の意味は、そう考えるほうがまとまるような気もする。
ここを訪れる観光客の数は、相当なものだろうが、この岬を気にかける人は、おそらく一人としていないだろう。
ふたつの岬がある浦戸の出っ張りは、浦戸大橋で湾口をひとまたぎにして、北側の出っ張りと向き合っているが、そこは種崎という地名になっている。岬としてではないが、岬の名前らしきものが、そっくり地名になっている例は、少なくない。この種崎もそうなのだろう。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度29分54.01秒 133度34分35.62秒
四国地方(2010/01/25 再訪)
タグ:高知県
2010-05-26 05:35
きた!みた!印(11)
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