番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)まさに“建築家ここにあり”ですよね [番外]
なにもない地面とその上の空間に、実用的な目的をもった建物というものを建てる建築家というのも、なかなか魅力のある仕事のように思える。
「建築家・團紀彦」という名前を知ったとき、すぐに、頭にひらめいた名前があった。でんでんむしにとっては、作曲家としての本業よりも『パイプの煙』をエンエンとはき続けたことで知名の團伊玖磨と、近代史の重要ポイントで登場する三井合名の團琢磨…その一族ではないのかと思った。こういう直感はだいたい当たる。
といっても、「團」という名字そのものが、そうざらにはないので、別に自慢にはならないのだが、琢磨の孫にあたる團紀彦氏が生まれたのが、神奈川県の葉山である。葉山ではあちこちに住んでいたという團伊玖磨が建てた(奥村珪一:設計)最後の葉山の家というのをよく(遠目に)見て知っていたし、さらにその家がもはや人手に渡って取り壊されてしまってないと聞いて、今さらながら時代の移り変わりをしみじみ噛みしめたのであった。
その、“最後の葉山の家”というのがあった場所は、実は葉山町ではなく横須賀市なのだが、千葉なのに東京デスニーランド、日本テレビが新橋なのに汐留というが如きものであろう。
もう大昔の話だが、でんでんむしは、小さなヨットを持っていたことがあって、最初は観音崎(054)に置いていたが、その後、久留和から森戸海岸に置き場所を移した。その久留和というのが、葉山と横須賀の境になる長者ケ崎の南であった。久留和の北で海を見下ろす高台に、ひときわ目立つ白い平べったいコンクリートと広いガラス窓の建物が、あたりを睥睨していたが、團家のその広い大きな窓からの眺めは、062 長者ケ崎の項(付:マイケル・ジャクソンが座った椅子)に掲げた、久留和海岸がちょっとだけ見える写真に、少しだけ近いものだったろう。
ヨットといっても、その実ほとんどは海岸近くで雑魚釣り用ボートと化していたが、海の上からあれが團伊玖磨の家だと、見上げていた頃のことを思い出す。その頃、紀彦氏は高校生くらいだったのか…。
足摺テルメの写真を見たときに、なんとなくそんなことまで思ったのだ。
やはり、日本のエスタブリッシュメントというか、富裕階級の血統というのも厳然としてあるもので、まったく別の階級社会を流れているその流れは、滅多なとことではわれわれ庶民の血統とは交わることがない。團家は、ブリヂストンの石橋家、そしてあの気前のいいいお母さんがいる鳩山家とも閨閥でつながっている。
たとえそうだとしても、紀彦氏が湘南高校から東大へ進み、大学院や留学を経て、團紀彦建築設計事務所を設立(1986年)し、建築家として実績を残すことになるのは、環境に恵まれたこともさることながら、ご本人の努力と豊かな才能の賜物にほかならぬものであろう。
ここ、土佐清水市の国民宿舎足摺テルメは1998年の作品であるが、山の上にでかい建物を建てるのではなく、山から下る斜面をうまく利用した宿泊施設は、まるでなにかおしゃれな物語の中にいるようで、すみずみまでなかなかに楽しませてくれる。
建築家というものの存在を、はっきりと感じさせてくれる国民宿舎なので、番外編として写真を載せておくことにした。
“匠”という言葉は、内橋克人氏の名作でなじみがあるとしても、一般に文字・活字のうえでのことで、これを代名詞として音声で呼び慣わすということを大胆にやってしまったテレビ番組がある。人気のリフォーム番組だというが、そこでは、やたら“匠”と連呼される建築家たちが苦心して、古い家を低予算で改造するのを見せている。あれをみていると、施主のこれまでのような暮し方が、果たしてリフォームできるのだろうか、と思うことがある。
せっかくのデザインも、かつてそうであったように、やがては施主の暮しのがらくたで覆われていくことになってしまうのではないだろうか。
つい、そんな余計な心配までしてしまうのだが、足摺テルメという国民宿舎では、ちょっとだけスペースを持て余している感はあるものの、ホテルという日常と機能から生じがちながらくたは、極力排除すべく配慮されているようだ。ただ、2010/04からは、このホテルの経営が変わったのか、名前も変わって「国民宿舎」が消えた。
さて、足摺テルメからは、足摺岬の町の中心部が眺められる。足摺岬は、この山の向こう側になる。
▼国土地理院 「地理院地図」
32度43分37.28秒 133度0分6.16秒
四国地方(2010/01/23 訪問)
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