525 野見崎=須崎市野見(高知県)明らかになにかあるような野見湾周辺の字地名 [岬めぐり]
野見集落とその西端の野見崎がある一角だけが野見湾に向かって出っ張っており、中ノ島行きのバスは山の高いところを通る細い道を海岸に降りて行く。
この半島でいちばん人家の多い野見の集落があるところは、道も行止りになるので、海のそばにあるバス停で向きを変えてまた来た道を戻って東隣の大谷集落へ向かうことになる。ここも海岸を周回するような道路は、野見と大谷のわずかな間しか通っていないが、野見湾に面した集落自体が、ほんのわずかしかないのである。
野見崎そのものは集落からは見えないので、これもやはり湾の南側から見るのがよい。
波も静かな野見湾内では、横浪三里と同じようにタイの養殖が盛んなようで、生け簀の筏には、独特のやぐらのようなものが組まれている。
地図を見ただけでも、わかることはたくさんある。地図を見ただけではわからないことも多い。現地へ行ってみてわかることもあるが、やっぱりわからないことのほうが多い。
地域の情報や知識といったものは、リアルな生活や景色のなかに深く沈み込んでいて、ときたま訪れる旅行者の意識に吸収されるものは、ごくありふれた観光情報のように例外的なものに限られている。
地図を見ていて発見した野見崎のある須崎市野見のふしぎさは、現地をバスで通り抜けてもわからないし、ましてや観光情報にもない。
今回の高知南西部の岬めぐりは、足摺岬再訪が主なポイントで計画したが、この須崎周辺のフラクタル地形に魅かれたことも大きな動機であった。なかでも、この野見湾の地形の異常さときたら、これは地図を見る人なら誰でもすぐに気がつくくらい特徴が際立っている。それをネット地図(Yahoo!地図)でまず横浪三里とあわせて眺めてみると、こんなふうになる。
これを野見湾中心でみると、細く痩せた半島と岬と、その先端に取り残されたような島が、ゆるやかに湾曲しながら囲い込んでいる。あるいは噴火湾のようにも見えるが、そうではないことは、湾の内側にある多くの岬の出っ張りと入江が証明している。
明らかにこの中央部分がなんらかの原因で凹んで陥没してしまったか…。
Yahoo!地図では、ケバ表現に新たな工夫して陰影を出しているのできれいだ。これでもいちおう地名による色分けをしているが、それは非常に遠慮深く行なわれているので、ほとんど気がつかないくらいだ。
そこで、今度はでんでんむしが愛用してきたALPSLAB base(この地図サービスは、“3月末終了”の予告通り、2010/03/24に終了してしまったので、この画面はその最後の貴重な資料となってしまった)でみると、野見の地名がついた場所は、こんなふうになっているのだ。
地図に残された、歴史的大事件の情報は、「野見湾は地震による大規模な地殻変動で沈下してしまったのではないか」という仮説を証明しているのではないだろうか…。
「野見」という地名が、北のわずかな集落部分だけでなく、湾を挟んで細い半島の南東内側に飛地のように展開していることだけで、そう断定するには証拠としては不充分かも知れない。
だが、でんでんむしの地図読みから広がる想像は、ここに大昔にあったかも知れない人々の暮らしにまで、易々と拡大してしまうのである。
33度22分33.73秒 133度18分35.75秒
四国地方(2010/01/22 訪問)
はじめまして。
dendenmushiの地図からの仮説通りで、『日本書紀』の天武天皇十三年(684年)十月十四に起こった「白鳳大地震」で広大な土佐の地が海没したとされる推定域の一部ではないかと、考えられている場所です。
実際、野見湾出口にある戸島周辺の海底からは、弥生時代の土器の欠片や奈良時代から鎌倉時代にかけての生活用具が多数発見されています。
野見 - 母の故郷 2012.09.08
http://nangokutosa.blog47.fc2.com/blog-entry-1467.html
by オンチャン (2012-09-23 09:54)
@ オンチャン さん、コメントとリンクありがとうございます。
「南国土佐へ来てみいや」拝見しました。四国土佐の歴史、維新の関連情報がみっちり網羅されていて、すばらしいですね。
お母様、お気の毒でしたが、最後に故郷「須崎・野見」の写真をご覧になれて、よかった。
ほんとに、この野見の景色は忘れられません。なんといっても、ホントに地震で集落の大半が沈んでしまった場所というのが、こんな形で残っているところは、ここだけでしょう。
しかし、鎌倉時代など中世の遺物もあるということは、地震も一度ではなかったのでしょうね。
by dendenmushi (2012-09-24 06:43)