502 塔ノ鼻・弁天の鼻=足柄下郡箱根町元箱根(神奈川県)もちろん見るだけなのだが箱根駅伝 [岬めぐり]
5区の最初のランナーが、国道1号線の最高点を過ぎて下る道を、二子山中継点の高いところからテレビカメラが映し出すのは、すぐそばのように見える白い富士山と青く澄んだ芦ノ湖南部の湖面と、箱根の町並みである。その間に、サルノコシカケか何かのように飛び出した緑の小山が浮かぶ。
その全体が箱根恩賜公園となっている元箱根寄りの出っ張りが弁天の鼻、大手町から各中継点で次々とランナーに手渡され、受け継がれてきたタスキが目指す往路のゴールのある南西寄りにあるのが塔ノ鼻である。
もちろん、走ってきたランナーには、富士の景色を楽しむ余裕はあるまいし、恩賜公園の二つの岬のことなどは、集まってきた大勢の見物のなかの、誰一人として気にすることはあるまい。
ごろ寝正月のでんでんむしは、今年もまたテレビで箱根駅伝を観戦しながら、カメラがほとんど無意識にとらえたこの二つの岬をしっかりと再確認する。
恩賜公園だけあって、余計な建物も何もない平たい出っ張りは、公園だから中にも入って歩くことはできるが、それではこの岬は見えないだろう。ここも、海賊船の上から眺めるのが、ベストポジションのはずだ。
そう考えて今回もそこへ行かなかったが、それどころか、何度もここを通っていながら、いまだに箱根関所跡や資料館にも行ったことがない。へそまがりを自認するでんでんむしは、誰かが作為的に誘導しようとする観光施設や、そういう“見せ物”的なものに、素直についていけないという習性がある。
じゃあ、箱根駅伝もそうではないか…。そう、近年は特に日テレの超目玉イベントに仕立て上げられて、疑いもなく立派な見せ物になっている。年々その人気は高まり、沿道で声援を送る人の列は、途切れることがない。その人気に気をよくして、数年前からはゴール前には銀座中央通りの北と日本橋を通るようにコースを変更した。今年の往路での箱根小涌園前の人波は、かつてないほどで、広い道路を狭くしていた。
だが、箱根駅伝にはテレビ中継が始まるずっと前から馴染みがあるのであって、テレビの仕掛けに引きずられているわけでもない。そもそもスポーツのなかでも、自分自身でなにかやり遂げたという記録は、高校生の頃の16.5キロのマラソンを二度走り抜いたのと4キロの遠泳くらいしかないのだが、何一つ道具を使わず、長距離をただ足を動かし手を振ってひたすら前を向いて走るだけという、マラソンや駅伝には、特別な思い入れがしやすい。
箱根から遠い広島にいても、箱根駅伝の様子は、映画館で上映される「よみうりニュース」で独特のイントネーションをもつナレーションとともに強く印象に残っていた。そのうちの雪の中のレースは、今でも思い出の映像として中継の合間に挟み込まれたりする。
その頃は、広島カープと同じ「C」のマークをつけた中央大学が連覇していた頃で、その後しばらくして映画かテレビか確かな覚えがないが、カラーの映像で見たときには湘南電車カラーの大東文化大学が強かったような記憶がある。
日テレのアナウンサーは「伝統の箱根駅伝」をやたら強調してやまないが、この局が駅伝中継の商業価値に気づいて、自分たちのものとして取り込むことに成功したのは、そんなに昔のことではない。日テレがテレビ中継を始めるのは、1987(昭和62)年からである。でんでんむしは、それ以前にはまだ完全中継ではないテレビ東京の放送で見ていたのだから、その記憶はその頃のことだろうか。
友人に競馬ファンがいて、血統を追って馬を見ることのおもしろさを語ってくれたことが印象に残っているが、駅伝も高校駅伝で活躍した選手が、東京の大学に入って箱根を走り、その彼がまた実業団で走りオリンピックにも出るようになる。
考えてみれば、速い記録をもつ選手もそれなりの選手もひとつのチームにまとまって、一本のタスキをつなぐといういかにも日本的な独自のシステムも、なかなか人情の機微をついているところがある。関東学連の主催というのも、全国から優秀な選手を集めた結果だから、これ以上はないという好位置をキープできている。
また、昔の東海道を往来する旅人が通った道筋とかぶる東京=箱根というコースルートも、絶妙といえる。
こどもの頃に抱いていた疑問は、“なぜ東海道はわざわざ箱根の山を越えなければならなかったのだろう”というものであった。当時から、丹那トンネルをはじめいくつかのトンネルが抜け、海岸際の道路も整備されていたから、もっとほかにいいルートがありそうに思えてしかたがなかったのだ。
しかし、やっぱりほかにルートはなかった。広重が描く五十三次の箱根の絵柄は、海から屹立する峨々たる山が中央にドーンと置かれ、その山懐の谷を旅人の列が続いている。
国道1号線は、小田原からは早川に沿って山道に入らねばならず、谷筋の道を詰めて芦ノ湖畔を通り三島へ下る、これが考えられる最も合理的な道筋だった。
それを思って初めて、今更のようにして、箱根の関所がここに設けられた理由に納得がいくのである。
関所の前後で、旅人は必ず塔ノ鼻と弁天の鼻という二つの岬を眺めながら通ったはずである。
ただ、その岬の名前がいつ頃からついていたのか、関所を抜ける旅人達もその名を意識していたことがあるのかどうか、それは定かではない。現在でも、ネット上にある地図では、でんでんむしの知る限り、国土地理院の「地図閲覧サービス ウオッ地図」以外では、これらの岬の表記は、まったく無視されている。
ちょうど一か月前にここを訪れたときに、芦ノ湖畔には箱根駅伝ミュージアムというものまでできていることを知った。このときは、箱根港で海賊船を降り、駅伝の碑があるバス乗り場から、6区のランナー達が走るコースを、バスで下ったのだが、このシーズンの紅葉は随分と遅くまで散り残っていた。
これを書いている今日2010年1月3日の朝は、そのミュージアムのそばから、箱根駅伝復路のスタートである。人が一生懸命に走っているのを、テレビの前でだらりとしてごちゃごちゃいいながら見ているというのも、なかなかヘンなものではあるが、これがやっぱりおもしろいんだね。
(2010/01/03記 2010/03/20Vol.2から移転統合)
▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.44秒 139度1分25.86秒 35度11分55.30秒 139度1分36.83秒
関東地方(2009/12/04 再訪)
その全体が箱根恩賜公園となっている元箱根寄りの出っ張りが弁天の鼻、大手町から各中継点で次々とランナーに手渡され、受け継がれてきたタスキが目指す往路のゴールのある南西寄りにあるのが塔ノ鼻である。
もちろん、走ってきたランナーには、富士の景色を楽しむ余裕はあるまいし、恩賜公園の二つの岬のことなどは、集まってきた大勢の見物のなかの、誰一人として気にすることはあるまい。
ごろ寝正月のでんでんむしは、今年もまたテレビで箱根駅伝を観戦しながら、カメラがほとんど無意識にとらえたこの二つの岬をしっかりと再確認する。
恩賜公園だけあって、余計な建物も何もない平たい出っ張りは、公園だから中にも入って歩くことはできるが、それではこの岬は見えないだろう。ここも、海賊船の上から眺めるのが、ベストポジションのはずだ。
そう考えて今回もそこへ行かなかったが、それどころか、何度もここを通っていながら、いまだに箱根関所跡や資料館にも行ったことがない。へそまがりを自認するでんでんむしは、誰かが作為的に誘導しようとする観光施設や、そういう“見せ物”的なものに、素直についていけないという習性がある。
じゃあ、箱根駅伝もそうではないか…。そう、近年は特に日テレの超目玉イベントに仕立て上げられて、疑いもなく立派な見せ物になっている。年々その人気は高まり、沿道で声援を送る人の列は、途切れることがない。その人気に気をよくして、数年前からはゴール前には銀座中央通りの北と日本橋を通るようにコースを変更した。今年の往路での箱根小涌園前の人波は、かつてないほどで、広い道路を狭くしていた。
だが、箱根駅伝にはテレビ中継が始まるずっと前から馴染みがあるのであって、テレビの仕掛けに引きずられているわけでもない。そもそもスポーツのなかでも、自分自身でなにかやり遂げたという記録は、高校生の頃の16.5キロのマラソンを二度走り抜いたのと4キロの遠泳くらいしかないのだが、何一つ道具を使わず、長距離をただ足を動かし手を振ってひたすら前を向いて走るだけという、マラソンや駅伝には、特別な思い入れがしやすい。
箱根から遠い広島にいても、箱根駅伝の様子は、映画館で上映される「よみうりニュース」で独特のイントネーションをもつナレーションとともに強く印象に残っていた。そのうちの雪の中のレースは、今でも思い出の映像として中継の合間に挟み込まれたりする。
その頃は、広島カープと同じ「C」のマークをつけた中央大学が連覇していた頃で、その後しばらくして映画かテレビか確かな覚えがないが、カラーの映像で見たときには湘南電車カラーの大東文化大学が強かったような記憶がある。
日テレのアナウンサーは「伝統の箱根駅伝」をやたら強調してやまないが、この局が駅伝中継の商業価値に気づいて、自分たちのものとして取り込むことに成功したのは、そんなに昔のことではない。日テレがテレビ中継を始めるのは、1987(昭和62)年からである。でんでんむしは、それ以前にはまだ完全中継ではないテレビ東京の放送で見ていたのだから、その記憶はその頃のことだろうか。
友人に競馬ファンがいて、血統を追って馬を見ることのおもしろさを語ってくれたことが印象に残っているが、駅伝も高校駅伝で活躍した選手が、東京の大学に入って箱根を走り、その彼がまた実業団で走りオリンピックにも出るようになる。
考えてみれば、速い記録をもつ選手もそれなりの選手もひとつのチームにまとまって、一本のタスキをつなぐといういかにも日本的な独自のシステムも、なかなか人情の機微をついているところがある。関東学連の主催というのも、全国から優秀な選手を集めた結果だから、これ以上はないという好位置をキープできている。
また、昔の東海道を往来する旅人が通った道筋とかぶる東京=箱根というコースルートも、絶妙といえる。
こどもの頃に抱いていた疑問は、“なぜ東海道はわざわざ箱根の山を越えなければならなかったのだろう”というものであった。当時から、丹那トンネルをはじめいくつかのトンネルが抜け、海岸際の道路も整備されていたから、もっとほかにいいルートがありそうに思えてしかたがなかったのだ。
しかし、やっぱりほかにルートはなかった。広重が描く五十三次の箱根の絵柄は、海から屹立する峨々たる山が中央にドーンと置かれ、その山懐の谷を旅人の列が続いている。
国道1号線は、小田原からは早川に沿って山道に入らねばならず、谷筋の道を詰めて芦ノ湖畔を通り三島へ下る、これが考えられる最も合理的な道筋だった。
それを思って初めて、今更のようにして、箱根の関所がここに設けられた理由に納得がいくのである。
関所の前後で、旅人は必ず塔ノ鼻と弁天の鼻という二つの岬を眺めながら通ったはずである。
ただ、その岬の名前がいつ頃からついていたのか、関所を抜ける旅人達もその名を意識していたことがあるのかどうか、それは定かではない。現在でも、ネット上にある地図では、でんでんむしの知る限り、国土地理院の「地図閲覧サービス ウオッ地図」以外では、これらの岬の表記は、まったく無視されている。
ちょうど一か月前にここを訪れたときに、芦ノ湖畔には箱根駅伝ミュージアムというものまでできていることを知った。このときは、箱根港で海賊船を降り、駅伝の碑があるバス乗り場から、6区のランナー達が走るコースを、バスで下ったのだが、このシーズンの紅葉は随分と遅くまで散り残っていた。
これを書いている今日2010年1月3日の朝は、そのミュージアムのそばから、箱根駅伝復路のスタートである。人が一生懸命に走っているのを、テレビの前でだらりとしてごちゃごちゃいいながら見ているというのも、なかなかヘンなものではあるが、これがやっぱりおもしろいんだね。
(2010/01/03記 2010/03/20Vol.2から移転統合)
▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.44秒 139度1分25.86秒 35度11分55.30秒 139度1分36.83秒
関東地方(2009/12/04 再訪)
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