489 割石崎=下北郡大間町大字大間(青森県)ドックつながりで50数年前へバック [岬めぐり]
割石崎は、地図では四角い人工的な四角い出っ張りとして描かれている。埠頭か何かかと思っていたのだが、タクシーを割石で降り、歩いて近づいて行ってみると、埠頭ではなかった。
そこは、陸から海に向かってつくられている長い傾斜の中を、何本かの赤錆びたレールが這っている。中小の船を船台に載せて、ワイヤーで引き上げて修理などの作業をする場所で、こういうのもやはり乾ドックと呼んでいいのだろうか。
レールが錆びているだけでなく、付近はかなり荒れた感じで、置いてあるというより捨てられたような雑多な空き缶などがあり、船台もあるにはあるが、最後に使ったのはいつだろうというような風情である。野天で屋根もなく、北と東側の一部に障壁が設けられているだけだ。
もっとも、必要なときにだけ船がここに引き上げられ、必要な道具や材料を、必要なときにもってきて作業を行なうだけなら、これでも構わないのかも知れん。別に、放棄されたわけではないのだろう。
海に没していく赤いレールを眺めていると、もう50数年も前にもなる、ある光景が、まざまざと浮かんでくる。
“ドック”と呼び慣わしていたその場所は、瀬野川が広島湾に注ぐ河口にあって、周囲を高い擁壁で固められ、狭い出入り口が一か所だけ開いていた。半分は水深の深いところで、残り半分の傾斜地に、ここと同じように錆びたレールが延び、その上には巨大な鋼鉄の車輪が付いた船台が錆びついていた。ここと違うのは、傾斜はもっと急で、船は縦にではなく横にして引き揚げられ、その船台は鉄の大きな無蓋貨車のようで、周囲が高いコンクリート壁で囲まれていたことだ。
出入り口の上に架かっている欄干も何もない申し訳のような板橋から、飛び込むのが悪ガキたちの遊びだったが、干潮時には水面が遙か下のほうになって、ちょっと怖いが、満潮時ではそれほどでもない。
そんなことができたのも、実はそこは戦時中は潜水艦の補修ドック(といわれていた)だったからである。今考えると、干満の差が激しい広島湾の奥に潜水艦ドックがある理由が希薄なので、とくに潜水艦というわけではなかったように思われる。だがまてよ。ドックと地続きの日本製鋼所では、大砲などもつくっていたというから、あるいは潜水艦艤装のためのドックであった可能性も否定できない。
そのドックも、錆びついた鉄の固まりも、かなり長いことそのままだったようだが、その後どうなったかは知らない。
そうだ、今はそこはどうなっているのだろうと思いついて、Yahoo!地図を見ると、広島市の東部卸売市場になっていて、周辺の埋立ても進んでいて付近の様子はだいぶ変わっているが、今でもそこはちゃんと四角い入江のような形が残っていた。もちろん潜水艦のドックではあるまいから、市場に直結する船溜まりとして使っているのだろうか。
割石崎は、ここも元々あった出っ張りを利用してドックをつくったが、昔の岬の名前はそのまま残ったということだろう。
テトラポットに砕ける白い波頭のかなたに島のように見える函館山には、その右手に立待岬(141 立待岬・大鼻岬=函館(北海道)は〜るばる来たで…)がある。
ドックを後にして、再び北へ向いて歩き出すと、“ここからは先は観光地だよ”と言わんばかりに、急に道路がきれいになって、歩道も整備されたところに出た。
そして、前方に白黒だんだらの大間埼灯台が見えてきた。
灯台をシマシマの塗装にするのは、北日本で多い。それにも立派な理由があって、普通の灯台のように白一色だと、吹雪などの悪天候のときに視認しにくくなるから、ということらしい。
41度32分13.88秒 140度54分28.05秒
東北地方(2009/09/10 訪問)
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