463 湊岬=倉敷市児島通生(岡山県)自分はどんな時代に生きているのだろうか [岬めぐり]
地図では名前もついていない小さな湾の、南側に出っ張っているのは湊岬。北側の宮の鼻くらいだと、岬の上には神社があるので、そこから自然発生的についた名前であろうと、想像できるが、こういう一見ごく一般的すぎて平凡なのは案外困る。だが、埋立ても臨海工業地帯もなかった時代のこの付近を想像してみると、ここに“湊”の字をつけたのも、そう突飛な、根拠のないことではないように思えてくる。
ちょうど、鷲羽山(わしゅうざん)がその名のとおり鷲の翼片のように南東側に流れていく、その翼の肩口?のところにこの湾と二つの岬があるが、ここから南の下津井港まで、昔は港らしい港ができる地形ではなかった。そういう意味では、この湊岬もランドマーク的な役割があったのかもしれないのだ。
湊岬の向うには、いくつかの小島が浮かんでいる。これは「濃地島」という共通の名を持つ小さな群れをなしている島々である。
この写真では、はっきりしないが、この遙か遠くに島影が見えれば、そこは香川県である。
湊岬を回り込んで南に5キロも行かないうちに、燈籠崎と下津井港があり、瀬戸大橋をくぐって鷲羽山とその先端の久須美鼻がある。ここは前にやって来たところで、既に項目があるので、今回は寄らず。
浜には墓地があり、ちょうどお盆で車でお墓参りにやってくる人が多い。430号線に戻って、児島駅までバスで出る。
児島といえば、きょうてい。“きょうてい”といえば、いまでは“エロおばさん”のほうでつとに名高い岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』。岡山には、横溝正史の伝統もあるので、彼女も山のほうかと思っていたが、和気の生まれである。
ま、それはこことも岬めぐりとも関係がない。関係があるのは、競艇場へ行くおじさんたちのためにバスが待っている駅前からも見える、せとうち児島ホテル。ここは、前回きたときに泊まったのだが、なかなかユニークな絶景ホテルで、印象に残っていた。
ところで、今日は2009(平成21)年8月30日、日曜日である。
零式艦上戦闘機(ゼロ線)がつくられ、水島での一式陸上攻撃機が製造が進められ始めた頃は、「紀元は二千六百年…」などという歌が歌われていた。飛行機の名前に、零とか一とか数字が入っているのは、この頃日本だけで使われていた、神武即位から起算する独自の年号“紀元”の末尾数字で表わされた年式なのだ。
ヨーロッパではナチスの侵攻で第二次世界大戦が始まり、アインシュタインはルーズベルトにウラニュウム爆発で強力な兵器ができる旨をしたためた手紙を書いた。
日本国内では、ノモンハンでの壊滅的な近代戦の教訓に学ぶこともなくひた隠しにし、軍部の三国同盟推進派を誰も止める者なく、なし崩しに国論が傾斜し、新聞もこぞって戦争への道を煽りつつ、敵性用語を排斥したり、朝鮮半島の住民の創氏改名を進めたり、贅沢を諌め坊主頭を奨励したり、“産めよ増やせよ”と、ひたすら総動員態勢に突き進んでいた。
そんな時に、でんでんむしは、この湊岬から海でつながった、ず〜っと西の広島市で生まれた。
いかに平々凡々な、一市井人といえども、どんな時代に生きてきても、常にその歴史の流れのなかにある。
その後に国が破れ、世がどん底を経験しながらも、復興をはかり、成長を目指し、なんとかかんとか、64年にわたって、一度も戦争を起こさず、他国の戦争にも(直接は)加担せず、いちおうの平和に生きてこられた。
親や祖父母の時代は、国政の梶取りには人を得ず、軍部が政治を壟断し、世論は新聞に操られて流れて提灯行列に行き、まったく信じられないくらい、あきれるくらいひどい時代だった。そんな時代の教訓は、ほんとうに活かされてきたのだろうか。
それから想えば、確かに戦争がなかったというだけでもわれわれが稀にもラッキーな時代に生きたと、後世からいわれることがなく、この後の歴史をつくる人々も、より以上に幸運で、いい時代に生きたといえるような世の中を、ぜひともつくっていかなければならない…。
有権者の投票行動によって政権が変わり得る、世の中を少しは変えられるということは、あたりまえのことなのに、なぜかこれまで一度もなかった(数件の例外的なことを別にすれば)。それが戦後の民主政治のなかで初めて実証されたということになれば、ひょっとすると、今のこの時この時代も、いずれ後世の歴史では、大きな政治的変化の潮流が動き始めた転回点として、記録されることになるのだろうか。
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中国地方(2009/08/13 訪問)
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