437 長崎=南都留郡富士河口湖町大石(山梨県)山があってもヤマナシケン。海はなくとも岬はあるぞ [岬めぐり]
思いがけず、友人から「湯村温泉の宿泊券があるが、三月中に使ってしまわないと無効になるので、一緒にどうか」と誘われ、一も二もなく飛びついてしまった。
海なし県で、こどもの頃によく「山があってもヤマナシケン。すぺってころんでオオイタケン」などといっていたが、あれは全国共通だったのだろうか。山梨県の岬は、言わずと知れた富士五湖である。富士五湖も、すでに全湖に行ってはいるものの、岬としてカウントするには材料不足で、そのためには改めて回らなければならない。
タナボタのこの機会に、山梨県の岬を全部クリアしてしまおうと、意気込んだはよいが、山深き甲州の春は、思いのほか遅かった。
本栖湖や精進湖のほうを回るバスは、まだシーズンオフの運休期間中で、4月の始めにならないと運行しないというのだ。
しかたがない、今回は河口湖だけで我慢するしかない。
ただ、富士五湖の岬といっても、本栖湖と精進湖にひとつずつあるほかは、残りは全部河口湖なのである。西湖は山の中で人里から離れているうえに周辺も山の中なので岬はないのだろうし、山中湖も比較的開けているとは言うものの、それがほとんど別荘やキャンプ場とテニスコートだからであろうか。
五湖のなかではいちばん町である河口湖へは、富士登山のときをはじめとして何度も来ているが、岬をメインで意識してきたのは初めてである。
長崎という名のついた岬が、ここにあることは、実はこれまで気にしたことがなかった。それほど目立たない岬で、地図でそうだといわれて、初めて気がついた。地図好きのでんでんむしにとっても、岬めぐりのおかげで、常に新たな発見があり、地図をみる機会と楽しさがいっそう増し、世界が広がっていくような気がする。
河口湖畔の町は、当然、駅のある側、湖の南東側が中心ではあるが、この長崎のあるほうの北側も、山からのスロープに結構ゆったりと町が展開している。美術館だとか民宿だとかも多くできているが、それらは河口湖大橋ができたこともおおいに関係があろう。
“富士によく似合う月見草”などもあるらしい御坂山地が、東西に伸びて、甲府盆地と五湖を隔てている。甲府から笛吹川を渡り、御坂みちを上って、トンネルにさしかかる。太宰治がここを越えた頃は旧道の峠越えで、富士を見るにはそのほうがいいことはわかっているが、これは山歩きではないし、富士が目的でもないから、心残りなく御坂トンネルをバスで走り抜ける。
と、もう正面には富士山が見え隠れする。このトンネルを出たところ辺りで、長崎が張り出しているところが見えないかと思ったが、こういうことはなかなかうまく思惑どおりにはいかないものだ。
したがって、ここも正面からの写真ばかりになってしまった。
“2号”でもなく“8時ちょうど”でもない7号の“あずさ”で、甲府に着いた前日は小雨のなか、「風林火山」の孫子の旗を展示しているという武田神社へ行ってきた。ここへは初めてだった。甲府駅からだらだら坂をゆるゆる上っていった小高いそこが、躑躅(つつじ)ヶ崎城館のあったところだ。城を造らないといった信玄が選んだこの地形は、なかなか興味深い。
駅前の信玄像は、いつの間にかロータリー中央から、駅横の公園に移転していたが、日本列島のほぼ中央辺りで、生涯戦によって周辺を切り従えようとして動き回った彼の、“世界観”はどんなものだったのだろう。おそらくは、“唐天竺”の知識はあったとしても、越後から駿河、関東から京までくらいの範囲しか、世界の実感はなかったのではなかろうか。
湯村温泉富士屋ホテルの部屋からは、白いアルプスも見えたが、それがなんという名の峰かは、まだ特定できていないままだ。手前が鳳凰三山で、白い峰が南アルプスの間ノ岳や仙丈ヶ岳付近だろうか。甲斐駒ケ岳が見えていないようだが、すると手前の独立峰は、三山ではないのかそれがよくわからない。今更ながら、まさしく甲州は山また山に囲まれている。
大宰治になる前に、「津島修治」として発表した初期作品のなかに、『地図』という短編がある。
これを持ち出すのは、大宰ファンだからではない。むしろ、純文学が苦手なでんでんむしとしては、彼の人こそ最も苦手な部類の代表選手で、その作品も数えるほどしか読んでいない。だが、生誕100年の桜桃忌にあわせて、たまたま昨夜のNHK『クローズアップ現代』でも、最近の大宰ブームを取りあげていたので、ミーハーとしてつい便乗する気になったまでのこと。
ちょうど、信玄後の時代の話である。5年かかってやっと石垣島を征服した琉球王が、オランダ人から祝いにといって世界地図の巻物をもらう。わしの国はどこかと聞かれるが、オランダ人は困ってしまう。彼らのもってきた世界地図のなかでは、日本でさえもあまりに小さく、琉球は表示もされていなかった。激怒した王は彼らの首を切ってしまう。やがて、石垣島の反攻によって、首里城を追われ…。
この頃、世界図を認識していたのは、“天下布武”を唱えた信長くらいであろう、というのは定説になってはいる。しかし、武はまた武によって滅ぶ。信長は、それもまた充分にわかっていたのではないだろうか。
▼国土地理院 「地理院地図」
甲信地方(2009/03/26 訪問)
海なし県で、こどもの頃によく「山があってもヤマナシケン。すぺってころんでオオイタケン」などといっていたが、あれは全国共通だったのだろうか。山梨県の岬は、言わずと知れた富士五湖である。富士五湖も、すでに全湖に行ってはいるものの、岬としてカウントするには材料不足で、そのためには改めて回らなければならない。
タナボタのこの機会に、山梨県の岬を全部クリアしてしまおうと、意気込んだはよいが、山深き甲州の春は、思いのほか遅かった。
本栖湖や精進湖のほうを回るバスは、まだシーズンオフの運休期間中で、4月の始めにならないと運行しないというのだ。
しかたがない、今回は河口湖だけで我慢するしかない。
ただ、富士五湖の岬といっても、本栖湖と精進湖にひとつずつあるほかは、残りは全部河口湖なのである。西湖は山の中で人里から離れているうえに周辺も山の中なので岬はないのだろうし、山中湖も比較的開けているとは言うものの、それがほとんど別荘やキャンプ場とテニスコートだからであろうか。
五湖のなかではいちばん町である河口湖へは、富士登山のときをはじめとして何度も来ているが、岬をメインで意識してきたのは初めてである。
長崎という名のついた岬が、ここにあることは、実はこれまで気にしたことがなかった。それほど目立たない岬で、地図でそうだといわれて、初めて気がついた。地図好きのでんでんむしにとっても、岬めぐりのおかげで、常に新たな発見があり、地図をみる機会と楽しさがいっそう増し、世界が広がっていくような気がする。
河口湖畔の町は、当然、駅のある側、湖の南東側が中心ではあるが、この長崎のあるほうの北側も、山からのスロープに結構ゆったりと町が展開している。美術館だとか民宿だとかも多くできているが、それらは河口湖大橋ができたこともおおいに関係があろう。
“富士によく似合う月見草”などもあるらしい御坂山地が、東西に伸びて、甲府盆地と五湖を隔てている。甲府から笛吹川を渡り、御坂みちを上って、トンネルにさしかかる。太宰治がここを越えた頃は旧道の峠越えで、富士を見るにはそのほうがいいことはわかっているが、これは山歩きではないし、富士が目的でもないから、心残りなく御坂トンネルをバスで走り抜ける。
と、もう正面には富士山が見え隠れする。このトンネルを出たところ辺りで、長崎が張り出しているところが見えないかと思ったが、こういうことはなかなかうまく思惑どおりにはいかないものだ。
したがって、ここも正面からの写真ばかりになってしまった。
“2号”でもなく“8時ちょうど”でもない7号の“あずさ”で、甲府に着いた前日は小雨のなか、「風林火山」の孫子の旗を展示しているという武田神社へ行ってきた。ここへは初めてだった。甲府駅からだらだら坂をゆるゆる上っていった小高いそこが、躑躅(つつじ)ヶ崎城館のあったところだ。城を造らないといった信玄が選んだこの地形は、なかなか興味深い。
駅前の信玄像は、いつの間にかロータリー中央から、駅横の公園に移転していたが、日本列島のほぼ中央辺りで、生涯戦によって周辺を切り従えようとして動き回った彼の、“世界観”はどんなものだったのだろう。おそらくは、“唐天竺”の知識はあったとしても、越後から駿河、関東から京までくらいの範囲しか、世界の実感はなかったのではなかろうか。
湯村温泉富士屋ホテルの部屋からは、白いアルプスも見えたが、それがなんという名の峰かは、まだ特定できていないままだ。手前が鳳凰三山で、白い峰が南アルプスの間ノ岳や仙丈ヶ岳付近だろうか。甲斐駒ケ岳が見えていないようだが、すると手前の独立峰は、三山ではないのかそれがよくわからない。今更ながら、まさしく甲州は山また山に囲まれている。
大宰治になる前に、「津島修治」として発表した初期作品のなかに、『地図』という短編がある。
これを持ち出すのは、大宰ファンだからではない。むしろ、純文学が苦手なでんでんむしとしては、彼の人こそ最も苦手な部類の代表選手で、その作品も数えるほどしか読んでいない。だが、生誕100年の桜桃忌にあわせて、たまたま昨夜のNHK『クローズアップ現代』でも、最近の大宰ブームを取りあげていたので、ミーハーとしてつい便乗する気になったまでのこと。
ちょうど、信玄後の時代の話である。5年かかってやっと石垣島を征服した琉球王が、オランダ人から祝いにといって世界地図の巻物をもらう。わしの国はどこかと聞かれるが、オランダ人は困ってしまう。彼らのもってきた世界地図のなかでは、日本でさえもあまりに小さく、琉球は表示もされていなかった。激怒した王は彼らの首を切ってしまう。やがて、石垣島の反攻によって、首里城を追われ…。
この頃、世界図を認識していたのは、“天下布武”を唱えた信長くらいであろう、というのは定説になってはいる。しかし、武はまた武によって滅ぶ。信長は、それもまた充分にわかっていたのではないだろうか。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度31分17.98秒 138度45分26.44秒
甲信地方(2009/03/26 訪問)
北から南、日本海から太平洋側はては島嶼部まで──江戸もんの拙者にとってはいずこも外国と変わらぬ未知の地なのでござるが、岬めぐりにつき合って山梨県まで立ち寄ることになるとは意外千万。
率爾ながら、読み終えたばかりの『スペイン岬の謎』(E・クイーン)をご披露申すのじゃが──The Spanish Capeは西班牙ではなく亜米利加は紐育にほど近い北大西洋岸にあり、まるごと某富豪が所有しておる。ただしその出っ鼻に建つ豪奢な館はな、当主(もしくは夫人)の招待なしには滞在すること不可。しかも奇怪な事件が相次ぐゆえ推奨はできんのう。なおこの地域の公道は海水着で往来してもお構いこれなしとのこと。以上、いずれの日にか“海外篇”があることを期待して。頓首
by dotenoueno-okura (2009-06-23 11:29)
@E・クイーンのそれは、わたしも読みましたよ。欧米の作家の
作品には、「岬」が舞台だったり、主要なモチーフになったりしているのが、少なからずありますね。ケン・フォレットとか、アステリア・マクリーンなんかにもあったような…。
その点、日本では少ない。せいぜい「火サス」とか「水ミス」とかいうやつで、岬や断崖の上で犯人が延々と告白したりするくらい…。
やっぱり、岬は隔絶された地形というイメージがありますから。
“海外編”ねえ。日本編がなにかメドが付かないとねえ。
昨日もある人とそんな話しになって、「岬全部行こうと思うとおじいさんになっちゃうじゃなですか」と、その人が言うわけです。
もう充分おじいさんなんだけど…。
by dendenmushi (2009-06-25 05:54)