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430 羽島崎=いちき串木野市羽島(鹿児島県)「すべての人のために」バスは走る [岬めぐり]

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 バスが走る道路からも、ポコンとした岬の出っ張りが見えているのだが、地図によるとこの丸い出っ張りの西の端に、羽島(はしま)崎の名が表示してある。
 羽島の集落も、ちょっと歩いてみる予定だった。白い大きな鳥居のある海土泊というところから、岬の鞍部を上り詰め、その西の甑島が見えるところまで、歩くつもりだったのだ。
 それができなくなったので、車窓からだけになったが、西の端だから沖ノ島との距離が最も広く見え、バスがようやく羽島の町に近づいてきたというときぐらいに、どうにかこうにかムリヤリ見えるということにしておかなければならない。
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 市の中心部からは遠く離れ、岬の影に隠れるようにして山間の小さな三角州にできたこの町にも、歴史の残照が光り輝いているのだ。そういうところは、さすが薩摩というべきか。
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 1865(慶応元)年という年、実は正確には元治2年は、生麦事件の3年後、薩英戦争のたった2年後である。まず高杉晋作の功山寺挙兵があり、水戸では尊王攘夷過激派の天狗党の乱が起こる。幕末維新への大回転の歯車が、まさしくきしみはじめた年であった。アメリカは南北戦争の最中だったので、その頃の日本人にとっては、学ぶべき外国といえばイギリスであったが、逆境からの転換を図る薩摩の変り身と意識改革は素早かった。
 もっとも、これは長州も同じであり、敗戦後の日本も同じようなものだった、というべきなのかもしれない。
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 その年の春、この羽島の浦から、10代から30代前半という若者たちが、島津斉彬の指示と長崎の貿易商グラバーの支援で、ひっそりとイギリスへ向け船出した。もちろん藩が認めていても、まだ鎖国中なので公然とは行なえることではない。表向きは「甑島へ行く」といって出かけた海外留学であった。
 このことを初めて知ったのは、大佛次郎の『天皇の世紀』だったかもしれず、あるいは司馬遼太郎のなにかだったかもしれぬが、それはどちらでもよいことだ。
 岩倉視察団に先んじること6年前の、この薩摩藩士留学生のなかに、426 愛宕鼻でも出てきた外務卿・寺島宗則(実はこの人が明治新政府の電信事業を推進した。でんでんむしの散歩道でもある隅田川河畔の明石町には、日本の電信発祥の地の碑もある)になる前の松本弘安がおり、近代大阪の基礎を築いた五代友厚がおり、初代の文部大臣となる森有礼がいた。まさしく、「土地に人あり歴史あり」ではないか。
 この留学生たちがいたおかげで、それから2年後のパリ万博(日本が初めて国際舞台に登場したといっていい)では、幕府や佐賀藩も出展したが、それらをしのいであたかも薩摩こそが日本代表のようであったというのも、これも前掲書かなにかで読んだ記憶がある。
 始発からバスが土川に着くまで、「いきいきバス」はずっと乗客は一人きりだったので、いつものように運転手さんから、いろいろな話を聞くことができた。
 始発のバス停が変な場所にあるのはかつてはこの路線がスクールバスであったこと、今はいわさきグループになっているけれど、その前は林田交通のバスとして鹿児島県下ではかなり羽振りが良かった時代もあったこと、その当時入社した自分は林田交通に勤めているということで近所ではエリートたりえたこと、この路線も当時は朝夕は満員の乗客を載せて走るドル箱路線だったことなど、問わず語りに話してくれた。
 その話しぶりからは、「運転手あってのバス会社だ」という方針を貫いた昔の会社や昔の社長への誇らしさとともに、かつては鹿児島市の一等地の天文館でもシンボルであった「かごしま林田ホテル」をつくった会社にある思い入れと、不本意な現状への密やかな嘆きが伝わってくる。
 それがなんであってもいいのだが、人はなにか誇らしく思うものを失っては、うまく生きていけない。そういうことは、よくわかる。
 この運転手さんも、楽しい話し好きな人で、そのほかにも道路と原発の関係や、山の小さなタケノコやイワツツジなど、車窓から見えるものについて、解説してくれた。
 これからどこへ行くのかというので、天狗鼻が見えるところまで行くつもりだったのだが…とこれまでの事情を話すと、「そりゃ、やめといてよかった。行くなら鈴でもつけて行ったほうがいい」と言われてしまった。
 羽島の集落を過ぎ、山の道に入ったところで、「羽島衣料店」という一軒だけが店開きをしていて、おばさんたちが集っている。衣料店というのは看板だけで、野菜や食品が道路まではみ出して並べられているが、ここでまことに愉快な光景に出くわす。
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 行きも帰りもそうだったのだが、バスがその前を通るとき、店の前にいたおばさんたちが、いっせいに歓声を上げ、運転手さんに向かって大きく手を振るのだ。運転手さんも、それに応える。
 「大人気じゃないですか! モテモテですね」
 「エヘヘ、そうなんですよ」
 と言っている間に、おばさんの一人がバスに走り寄ってきて手に持ったなにかを運転手に手渡したりしている。
 日に、いやこのコースの「いきいきバス」の運行日は月水金の週3日のみ、その一日に2〜3回しか通らないバス、決まった時刻に通り過ぎるバスは、長い間に山地の集落の人々の生活のリズムを刻んできたのであろう。
 バス会社とその路線の消長もまた、地方の歴史を刻んできた。
 林田熊一が宮之城(ここは、鹿児島空港から出水に向かう途中で、リムジンバスで通り過ぎた川内川中流の盆地の町)で乗合い自動車(バス)事業を始めたのは、大正時代中期である。
 そして、そういった出来事は、全国各地で、盛んに起こった。日本の乗合い自動車事業の最初の一歩は、実は広島で始まっているのだ。なぜそれを知っているかといえば、古い話だが小学校の社会科見学で、海田市にあるバスの車庫を訪ねたとき聞いて、なにやら誇らしく思ったから忘れずに覚えていた。
 その発表が先生方の研修公開授業になり、他校の先生が後ろに並んで見守るなかで行なわれた。グループごとに壁に貼り出した発表資料のバスの絵の後ろに、“のらくろ”をまねて自分が描いた走行排気を示す吹き出しを指さして、参観の先生がなにやら話しているのを横目で見て、それもまた誇らしかったという古いとても古い記憶までもが、さまよいだしてきたりする…。
 林田バスが清算され、正式にいわさきグループバスの傘下になったのは、つい去年のことだが、実質的にはいわさき支配はもっと遡る。ところが、これは前回の鹿児島訪問で知ったのだが、このいわさきグループは、大幅な路線カットを断行し、なかには地元自治体などとの調整がつかぬままに一方的な大合理化を画策したせいか、なかなか評判がよくないと聞く。
 そして、これも聞きかじりだが、そもそも「バス」の語源は、オムニバス(omnibus〕に由来し、元のラテン語の意味は「すべての人のために」というのだそうだ。
 そのバスが、今わが国ではだんだんと切り捨てられ、あまつさえ高速道路料金を1000円にして不要不急の車をあふれさせ渋滞を促進するという、自公政権のわけのわからない場当たり的な人気取りによって、ますます苦境に追い込まれている。
 世の中は「すべての人のために」を忘れかけ、「自分のために」だけで動いていくのか。

▼国土地理院 「地理院地図」
31度45分5.82秒 130度11分11.74秒
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dendenmushi.gif九州地方(2009/03/18 訪問)

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タグ:鹿児島県
きた!みた!印(10)  コメント(4)  トラックバック(1) 
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コメント 4

dotenoueno-okura

寺島・松本・五代うじか、なるほど九州は革新の人材を輩出しておりますな。現代も劣らぬ激動の時代、志の高い若者の登場に期待しており申す。
単独行の岬めぐりにはアクシデントがいっぱい。けが・病気はもとより、迷子・盗難・追い剥ぎなどあまたの危険と隣り合わせですからなあ。飲食物にはよくよくご留意あれ。 
“のらくろ”とはまたお懐かしや。あの吹き出しはまっこと特徴的でござった。杉並当時、拙宅が田河水泡うじの近くでな、その門扉に大きなのらくろの顔が描いてござった。では御免。
by dotenoueno-okura (2009-06-10 06:24) 

dendenmushi

@確かに薩摩が人材を輩出したのは事実ですね。けれども、反面からみれば、薩長以外からの人材登用の門戸は開放されていなかった。
 これも「世襲」と似たようなところがあって、明治の新政府が薩摩や長州だけでなく、もっと全国からの幅広い人材供給によって成り立っていれば、その後の日本の歴史も、また変わっていた、と思うのです。
 「世襲」を「是」としたい理屈はいろいろあろうが、この一点だけでもこれを無条件には認められないでしょう…。
 とりわけ、軍閥のなかでは大山巖のような人もいたけど、薩長閥の影響は太平洋戦争まで残り、インパールなどでその無能ぶり、世襲人事の弊害をいかんなく露呈してしまうのですから…。
 のらくろもビックリですよ。
by dendenmushi (2009-06-11 07:01) 

ゆかり

羽島出身者です!!羽島衣料とかめっちゃ懐かしかったです。学校指定の体操服とか帽子を売っている店でしたが、私は大崎衣料派でした(どーでもいいwww)
今度来られるときは、羽島漁協の直売所「うんのもん」に行って見てください、ここも地域のおばちゃん達の生活の場ですから。そして、薩摩藩留学生渡欧の地がこの直売所の前にありますし、たしか西郷さんが作った玉積み堤防も見れますよ!ぜひ、また行って見てくださいね!
URLは私の会社が委託しているところを載せておきます。
12月の直売所の特集が羽島漁協なので良かったら見てみてください。懐かしい気分をありがとうございました!
追伸。まぐろラーメンは「蘭蘭」より「みその」ですよ!(友達んちなので贔屓ですw)
by ゆかり (2010-11-22 15:21) 

dendenmushi

@ゆかりさん、コメントいただいて串木野の岬を懐かしく思い返しています。自分でどんなことを書いたか、もう忘れているので、こうした機会に昔の項目を読み返して、ああ、そうだった…と思ったりすることも多いのです。
 失礼はお許しいただいて言えば、羽島のような、おそらく日本中で知っている人は少ないような場所を、わざわざ探してくる人も少ないでしょう。
 でも、羽島出身者の方からのこうしたコメント、たいへんうれしくありがたいことです。
 鹿児島県漁連のページ拝見しました。ゆかりさんの会社というのは、ここのメンバーということでしょうかね。12月の特集は、忘れずに見るようにします。
 犬辻鼻はもう一度見たいし、できれば天狗鼻にも…とは思いますが…。それに、マグロラーメンも、今度はぜひ「みその」へ行かないとね。そのときは、「ゆかりさんから聞いてやってきた」と言います。

by dendenmushi (2010-11-23 08:06) 

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