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番外:南方熊楠顕彰館=田辺市中屋敷町(和歌山県)その漠然とした思い…てんてん手まりの手がそれて [番外]

 長い間そうだとばかり思い込んでいたのに、あとで調べてみたらそれがとんでもない記憶違い、間違いだった、というようなことがたまにある。
 でんでんむしの南方熊楠への興味や思いも、自分自身の将来が描けぬまま、ただ漠然と博物学者や宮沢賢治にあこがれていた時期にあった。10代の終わり頃、高校生の頃からそれはあったが、発端は中国山地の山歩きであった。
 お金がないので遠くへは行けず、もっぱら地図を手に広島県内の山、県境付近の山をうろうろするのが楽しみで、その当時あった地元の小さな登山道具屋兼出版社が出す“山毛欅の木”の名を冠した山歩き本などを読んでは歩いていた。その頃は、“南方熊楠もこの中国山地を歩いていて、三段峡や帝釈峡も彼が世に広く紹介した”と信じていた。
 ところが、後年のことだが、彼の年譜など調べてみたときに、そんなことはどこにも出てこなかった。どうやらその頃に、いくつかの情報がクロスして記憶違いが刷り込まれたらしい。
 案外、“天狗”といわれた彼のこと、実は広島の山も歩いていたのかも知れない…が、彼が主にフィールドワークとして山歩きをしたのは、やはりこの紀州熊野の山に限られていたようだ。確かにアメリカへもイギリスへも行って暮しているが、和歌山生まれの彼が国内で過ごした場所は、そのほとんどが田辺周辺で、そのほかあまり遠くへ出かけたという形跡がまったく記録されていないのだ。
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 熊楠が住んだという家の隣には、和風モダンな南方熊楠顕彰館ができていて、その隣の屋根瓦を積んだ土塀が雰囲気を盛り上げている。
 館内の陳列物を眺めて歩いていると、また思いが飛んでいく…。
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 人間の歴史のなかには、「この人は生まれてくる時期を間違えたのかも知れない」というような人がままある。ただ、この理屈はだいたいが根拠薄弱で、その情緒をむやみに敷延すれば、かなり多くの人に当てはまる(またはそんな気がする)ので、あまり効果的とも決定的ともいえない。
 だが、太平洋戦争が始まる頃にその生涯を終えた彼の多彩な業績が再評価されるのは、戦後の混乱もおさまり、それから長い時間が経って世の中がやっと落ち着いてからのことになる。東大予備門では漱石や子規らと同期だったそうだが、そこから落ちこぼれになっている。その後の当時の日本人としては相当破天荒な人生、日本でよりも欧米での評価が高かったその研究などは、たとえば今のような時代にこそ、もっと大きな花を開かせたかも知れないと思わせる。
 反骨在野の研究者として、常にわが道を歩んだ熊楠は、神社合祀だけでなく、さまざまな問題にも、積極的にコミットしている。それが、田辺の人々にも受け継がれていたのだろう。
 そうそう、忘れるとこだった。407 洲崎の項のタイトルも、実は熊楠に敬意を表してかけてあったのだ。多才な彼は、鴨長明の『方丈記』を英訳して紹介した人物でもあった。
 前項には、「南方熊楠のキャラメル箱」というファンサイトを運営しておられる「てつ」さんという方からのコメントをいただいた。いかに“ひきこもりブログ”を標榜しているとはいえ(いや、それだからこそ)、こういった反応があることはありがたいことだ。でんでんむしの記述は、そのほとんどが自分で見聞きした経験と、昔の記憶だけで書いているので、熊楠についても正しい情報を得たいという方は、こういったサイトもご覧いただいたほうが、よろしいかと思います。
 上屋敷町と片町の間には広い道があって、その両側に駅前通りのアーケード街とはまったく異なる雰囲気をもつ、まだ新しい商店が並ぶ田辺銀座が突如として出現する。
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 その通りのはずれで、“弁慶の松”という石碑があるのを発見したときは、一瞬妙な気がした。そういえば、駅前にもでっかい銅像の弁慶ガナ・ギナタを振り回していたではないか。しかも、その銅像の脇には、平泉町との間にかわした「姉妹都市提携盟約書」なるものまで堂々と石に刻まれている。“盟約”というのが、文句は言わせないという圧力をちょっと感じさせるが、それだけではない。
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 武蔵坊弁慶が、源平合戦で活躍した熊野の別当・湛増の子だと信じる田辺の人々は、“弁慶祭り”まで開催して郷土の英傑として誇りをもっている。弁慶松は、奥州衣川での立ち往生を嘆き悲しんで、何代にも渡って植え伝えてきた。その五代目の松がここにあったことを伝えるのが、この碑である。
 これも“なるほど”というべきなのであろうが、実は弁慶が“京の五条の橋の上”で牛若丸に出合うまでのことは、その出生についてを含め、確かな史料がなく伝説の域を出ないらしい。
 でもね、こういう場合は“言ったモン勝ち”みたいなところがあるからね。
 それになんといっても、長い間熊野への玄関口の役目を果たしてきた田辺としては、ほかに競争相手も現われないので楽勝だ。
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 紀伊田辺の駅舎には、こんな看板も掛けられていた。♪ごめんなさいね〜(大江裕ふうに)。合気道にはご縁がなくて、さっぱり存じ上げませんでした。
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minakata09.gif 新大阪まで行く「スーパーくろしお」の車窓の左側には紀伊水道の海が光り、右側には収穫の終わったみかん山が続く。
 ふと、♪てんてんてんまりてんてまり…のメロディが浮かんでくる。紀州の殿様の駕篭に飛び込んで、山のみかんになってしまったあのまりは、いったい東海道の道中のどこで手がそれて飛んできたものだったのだろうか…。

▼国土地理院 「地理院地図」
33度43分51.94秒 135度22分39.98秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2009/01/25 訪問)(大阪・和歌山シリーズ終了)

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タグ:和歌山県
きた!みた!印(12)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

dotenoueno-okura

ロングランの和歌山シリーズも一段落ですか。なんか一緒に長旅したような気分です。和歌山県にこれほど岬が多いとは意外でした(地理にうといので、もっと凸凹が少ないと思っていた)。
てんてん手まりの手がそれて……こういう番外編もいいですね。これが「田邊の三人」とは知らなんだ。弁慶はともかく、骨太な精神風土、それに四国へと貫いている中央構造線と温暖な海が印象的でした。
毎度のことながら貴殿でんでんむしさんの旺盛な好奇心と該博ぶりに敬意を──。

by dotenoueno-okura (2009-05-01 08:09) 

dendenmushi

@和歌山県は海岸線が長いですからね。これでやっと3分の1くらいかな?
 今度は、鹿児島です。また、ご一緒に道中を楽しんでいただければ幸いです。
 ここもね、あんまり観光客が行かないところですよ。
 いやいや、でんでんむしの場合は、いつも単なるヤジウマで…。
 ウマといえば…。昨夜のNHK-hの映画「シービスケット」観ましたか。
by dendenmushi (2009-05-02 06:15) 

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