番外:河内長野観心寺=河内長野市寺元(大阪府)前々から気になっていた場所なので [番外]
同じ河内の片隅に何年か住んでいたのに、河内長野には一度も行ったことがなかった。一度も行ったことのない土地は日本中ほとんどがそうではあるが、ここは前々から気になるところで、行きたいと思いながら行けないでいた。
なにが気になるかといえば、まず第一が「十一面観音」。写真では見ていたが、実物はまだ拝観したことがなかった。
そこで、まずはこの仏たちにゆっくり会いたいと思う。同じく観心寺にある仏像としては、正面中央に鎮座まします国宝である「如意輪観音」のほうが文化財としての位は上なのだが、どちらかというとそのいちばん端っこに、わけのわからない石灯籠と並んでいるこの十一面観音像のほうが、その立ち姿を含めて、なかなかいいと思う。
防火対策をしたコンクリートの陳列館には防犯カメラはあるが誰もおらず、なにも注意がないので写真はフラッシュなしで撮らせてもらった。ところが、帰りがけに堂の隅に「撮影禁止」という古ぼけた小さな札が架かっているのを発見してしまった。ごめんなさいね。
次に気になるのが、楠木正成。南北朝の英雄で歴史上知らぬものとてない(?)のに、実はこの人に関する限り、史実というものほとんどなにもわかっていない。南北争乱の時代に忽然と現われて、短い間だけにその歴史に名を残し、最後は湊川で足利直義の軍に空しく敗れる。
敵方の足利尊氏でさえも一目置いていたらしく、その首はここ観心寺に送り届けられたというので、ここに首塚がある。
この寺の中院は楠木家の菩提寺とされ、正成少年時代の学問所であった。ここから南西方向に直線距離では4.5キロのところに、「大江時親邸跡」というのがある。これがちゃんと地図にも明記されているのがおもしろい。
この人は軍学に長けていた人物で、幼い正茂は彼を師として軍学などさまざまを学んだ、そのためここから加賀田の大江邸まで往復したといわれている。
千早赤阪村の楠城は、観心寺の北北東3キロの位置にある。ここや金剛山を背景に、彼が演出した軍略や奇計は、そこで学んだものが大きいとされる。それで、このあたりのことも気になっていたのだが、葛城山までは登ったが、金剛山には登ったこともない。しかし、結構深い山で、標高はさほどでなくとも、深い谷が幾筋にも刻まれ、尾根が縦横に伸びた、極めて複雑な地形である。
今回は、時間と天気の都合で、「大江時親邸跡」へは行けなかったのだが、観心寺から歩こうとすると、何度も谷を昇り降りし、団地のなかをよぎっていかなければならない。現在の様子は、下の国土地理院の地図で見る通り、山の上が削られていくつもの団地になっているのだ。この地図の右上が観心寺で、左下が大江時親邸跡なのである。
これもまた、「なんでこんなところで…?」という大疑問が、山と谷を覆う霧のようにわき出してくる。でんでんむし得意のかんぐりでは、昔の河内平野は北から南のこのあたりまで広い沼地で、人が住み着くような場所ではなかったのかもしれない。
この寺の奥の山には、これまた団地に付近を侵食されながら後村上天皇陵がある。後醍醐天皇の第8皇子にあたる彼は、父の死後吉野で即位した南朝2代の天皇なのである。実際、寺の山門を入ったところに後村上天皇行在所の碑があるが、ここで政務をとったのはわずかに過ぎない。吉野を拠点にあちこち活動した人で、天皇のなかでは数少ない武闘派。
その母である三位の局、新待賢門院の墓もあるが、この人は後醍醐天皇の寵妃でありながら、護良親王の排除に動くなど、あまり評判がよくない。護良親王を立てようとしていた正茂の首塚と、新待賢門院の墓が並んでいるのも皮肉といえる。宮内庁の手はここにもちゃんと行き届いていて、陵墓参考地にされている。
日本史のなかで謎が多い南北朝の、どちらを正当な皇統とするかの論議は永く続いた。そのなかで、楠木正成の評価も足利尊氏と対極にあって、揺れ動くことになる。
明治天皇は楠木正成の刀を佩刀としたといわれているが、明治も後年になって南朝が正統とされる。そして、明治以後の皇国史観のもとで「忠臣の鑑」としての虚像は膨大になってしまう。われわれくらいの年代には、講談社の絵本などで、桜井の別れとか、千早城の糞尿攻めなどという話を知っているので、その絵まで浮かんでくるくらいだが、そうした情報もそういう背景のなかで刷り込まれてきたのだ。
十一面観音の対面には、大楠公のゆかりの品も展示されていて、東郷平八郎と大山巖の書が並んでいた。
皇居前広場にあるのと同じ昔はハガキの絵柄にもなっていた馬に乗った楠木正成の銅像が、寺の下で雨に煙っていた。「観心寺」というバス停は、寺の前にはなく、そこから少し離れたところにあるが、これもバスが後村上天皇陵の隣の団地を回るようになっているからで、そのバス停のすぐ下からは、深い谷を流れる水音が上ってきた。
34度26分14.95秒 135度35分55.17秒
近畿地方(2009/01/21 訪問)
この辺の歴史がわからないのは、受けた歴史教育のせいでしょうかね。それでも河内平野には古代人から武将たちの足跡までが豊富に残っていることはわかります。それはともかく、東郷・大山両氏の書はヘタなうえ、アナクロニズムを感じます。
昨夜はまた『ゴッドファーザー』を観てしまいました。私の評価では最高の映画なのです。で、大江時親というのはコンシリオーリのような人物と思いました。
by knaito57 (2009-02-15 11:05)
@おたくのおばあさんなら全部歌えるはずですよ。わたしも歌えますけど…。落合直文作詞:『桜井の決別(わかれ)』
青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に
散るは涙かはた露か
コンシリオーリがどんな人だったか、すぐに思い出せないのですが、この大江時親も、安芸の毛利(大江)につながるワッカのひとつなのです。
by dendenmushi (2009-02-16 08:57)