351 権現堂崎=鳥羽市安楽島町(三重県)御木本幸吉と江戸川乱歩が同じ時期に同じ場所にいた [岬めぐり]
鳥羽市鳥羽町の水族館や伊勢湾フェリー乗場の南岩壁から見ると、権現堂崎は目と鼻の先にある。鳥羽港の細長い水道を挟んで、対岸は安楽島(あらしま)町になる。安楽島町は加茂川の東に出っ張った怪獣カネゴンのようなツノをもつ地形の半島で、島ではない。
その北西の端が、権現堂崎である。ミキモト真珠島と向かい合うここには、大きな観光ホテルが立ち並んでおり、その数10を超える。近年は“真珠婚”をうたい文句にして、真珠の需要喚起と拡販を狙っている観光地鳥羽のポイントになっている。銀婚式は、まだこどももやっと成人になるかどうかで、ヤレ就職だの結婚だのと落ち着かない。かといって金婚式まではまだ、だいぶ間がある。そこに目をつけた真珠婚は30年だから、まず平々凡々と生きていけばよほどのことがない限り、夫婦も揃って、一息つけるという時期でもあり、真珠はさほど高価なものでなければ手頃…というわけでなかなか着眼点はよい、のかもしれん。
鳥羽ドックという造船所があり、丘の上はホテルが占拠しているので、フェリー岩壁が、この岬を眺めるベストポジションになる。この日も、足場のよい岩壁は大勢の釣り人で賑わっていた。
カメラで権現堂崎の湾の向うを探すと、こんな光景が飛び込んできた。鳥羽湾の正面に見える大きな島は、菅島である。このあたりは島の南西部付近だが、なんと露天掘りのような、かなり大規模な採石場があり、どんどん山を崩している。色が黒っぽいので石灰岩ではないが、いったいなんだろう。
帰ってきて調べてみると、これはカンラン石の採取場だという。だが、この採石場に関する情報は、鳥羽市のホームページを見ても、なにもわからず、結局共産党の女性市議の議会での質疑を載せたページで、やっとそのことを知ることができた。
大正年間から一石材会社によって始まった、この菅島の採石場問題は、100年近くにわたって島の四分の一近くを削り続け、新幹線の線路の敷石や、中部国際空港の建設などにも使われてきたという。ここまで目立ってくると、もはや観光都市を目指してきた鳥羽市の恥部といってもいい存在になっている。
やっと、2003年はじめの市議会で、採石を終結させて全島を緑化することで方向が定まったらしい。
しかし、前回ここを伊勢湾フェリーで通ったとき、まったく気がつかなかったのは、答志島と鳥羽のほうばかり見ていたからだろうか。改めて、地図を見ると、採石場は伊勢湾フェリーの航路からは、影になって見えない位置にあるのだ、
九鬼水軍・九鬼嘉隆最後の砦となった鳥羽城は、現在の市役所付近にあったらしいが、西にはすぐ山が迫っているので平地が少なく、町は南北に細長く連なっている。そこを近鉄賢島線が走っていく。
前回は、伊良湖岬からフェリーで中之郷桟橋に着き、そのまま北へ向かったので、今回は名古屋から近鉄特急で五十鈴川を渡り、神前岬を今度は近鉄の車窓から眺め、鳥羽までやってきて、ここから南へ岬めぐりでまだ行っていないところをカバーするつもりである。
採石場だけでなく、大正年間にはこの鳥羽には旅館ができ、御木本幸吉が事業に乗り出し、乗合自動車が走り、連絡船が運航をはじめるなど、さまざまなことがあった。中之郷の埋立てが始まったのもそうだが、おもしろいことを発見した。
権現堂崎を挟むようにしてある二つの鳥羽ドックだが、これはほかに造船所らしきものはないので、江戸川乱歩が本名の平井太郎として勤務していた「鳥羽造船工場」そのものではないのか。
平井太郎氏は、大正6年からわずか14か月ほどだが、ここの電機部で働き、工場の機関誌の編集にもあたっていたが、彼の退社後お決まり通り第三号をもって廃刊となっている。
きわめて薄い縁ながら、後世の人間が、御木本幸吉と江戸川乱歩が、同じときに同じ場所にいて、別のことをしていたことを知るというのがおもしろい。もっとも、あらゆる人と人の邂逅とすれ違いは、すべからくそうしたものなのだろうが…。
さて、これからの鳥羽・志摩の岬めぐり、頼りにするのは三重交通のバスだけである。
あ、そうそう。権現堂崎の表示は、国土地理院のほうにはないが、Mapionにはある。下の地図で、「発着所」の文字があるところがそうである。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度28分46.42秒 136度51分0.02秒
東海地方(2008/11/19 再訪)
その北西の端が、権現堂崎である。ミキモト真珠島と向かい合うここには、大きな観光ホテルが立ち並んでおり、その数10を超える。近年は“真珠婚”をうたい文句にして、真珠の需要喚起と拡販を狙っている観光地鳥羽のポイントになっている。銀婚式は、まだこどももやっと成人になるかどうかで、ヤレ就職だの結婚だのと落ち着かない。かといって金婚式まではまだ、だいぶ間がある。そこに目をつけた真珠婚は30年だから、まず平々凡々と生きていけばよほどのことがない限り、夫婦も揃って、一息つけるという時期でもあり、真珠はさほど高価なものでなければ手頃…というわけでなかなか着眼点はよい、のかもしれん。
鳥羽ドックという造船所があり、丘の上はホテルが占拠しているので、フェリー岩壁が、この岬を眺めるベストポジションになる。この日も、足場のよい岩壁は大勢の釣り人で賑わっていた。
カメラで権現堂崎の湾の向うを探すと、こんな光景が飛び込んできた。鳥羽湾の正面に見える大きな島は、菅島である。このあたりは島の南西部付近だが、なんと露天掘りのような、かなり大規模な採石場があり、どんどん山を崩している。色が黒っぽいので石灰岩ではないが、いったいなんだろう。
帰ってきて調べてみると、これはカンラン石の採取場だという。だが、この採石場に関する情報は、鳥羽市のホームページを見ても、なにもわからず、結局共産党の女性市議の議会での質疑を載せたページで、やっとそのことを知ることができた。
大正年間から一石材会社によって始まった、この菅島の採石場問題は、100年近くにわたって島の四分の一近くを削り続け、新幹線の線路の敷石や、中部国際空港の建設などにも使われてきたという。ここまで目立ってくると、もはや観光都市を目指してきた鳥羽市の恥部といってもいい存在になっている。
やっと、2003年はじめの市議会で、採石を終結させて全島を緑化することで方向が定まったらしい。
しかし、前回ここを伊勢湾フェリーで通ったとき、まったく気がつかなかったのは、答志島と鳥羽のほうばかり見ていたからだろうか。改めて、地図を見ると、採石場は伊勢湾フェリーの航路からは、影になって見えない位置にあるのだ、
九鬼水軍・九鬼嘉隆最後の砦となった鳥羽城は、現在の市役所付近にあったらしいが、西にはすぐ山が迫っているので平地が少なく、町は南北に細長く連なっている。そこを近鉄賢島線が走っていく。
前回は、伊良湖岬からフェリーで中之郷桟橋に着き、そのまま北へ向かったので、今回は名古屋から近鉄特急で五十鈴川を渡り、神前岬を今度は近鉄の車窓から眺め、鳥羽までやってきて、ここから南へ岬めぐりでまだ行っていないところをカバーするつもりである。
採石場だけでなく、大正年間にはこの鳥羽には旅館ができ、御木本幸吉が事業に乗り出し、乗合自動車が走り、連絡船が運航をはじめるなど、さまざまなことがあった。中之郷の埋立てが始まったのもそうだが、おもしろいことを発見した。
権現堂崎を挟むようにしてある二つの鳥羽ドックだが、これはほかに造船所らしきものはないので、江戸川乱歩が本名の平井太郎として勤務していた「鳥羽造船工場」そのものではないのか。
平井太郎氏は、大正6年からわずか14か月ほどだが、ここの電機部で働き、工場の機関誌の編集にもあたっていたが、彼の退社後お決まり通り第三号をもって廃刊となっている。
きわめて薄い縁ながら、後世の人間が、御木本幸吉と江戸川乱歩が、同じときに同じ場所にいて、別のことをしていたことを知るというのがおもしろい。もっとも、あらゆる人と人の邂逅とすれ違いは、すべからくそうしたものなのだろうが…。
さて、これからの鳥羽・志摩の岬めぐり、頼りにするのは三重交通のバスだけである。
あ、そうそう。権現堂崎の表示は、国土地理院のほうにはないが、Mapionにはある。下の地図で、「発着所」の文字があるところがそうである。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度28分46.42秒 136度51分0.02秒
東海地方(2008/11/19 再訪)
タグ:三重県
夏場に訪れるといいところですね。
by 飛騨の忍者 ぼぼ影 (2008-12-13 10:35)
@飛騨の忍者ほぼ影さん、岬めぐりはトーゼンながら海辺ばかりなので、そういう意味ではどこも、夏に来てひと泳ぎしたいなあと、そう思うようなところばかりなんですね。
白川郷なども、まだ行ったことがないので、いつか機会があればとは思っていますが、どうも海辺が優先になって…。
by dendenmushi (2008-12-15 07:52)