328 生地鼻=黒部市生地吉田(富山県)「善循環」はもはや不可能な世の中になったのか [岬めぐり]
かつて、「黒部」という名前には、何とも言えない神秘的な、秘めた輝きのようなものがあった。そこには、誰も見たことのない滝や沢や絶壁がつくる谷があり、岩を食んで渦巻く激流があった。なにも山男たちだけでなく、普通の人々にも、その輝きへの憧れはあった。
でんでんむしの若い頃のひとつ話の自慢(表銀座の縦走と、八方尾根からの唐松岳越えで黒部の祖母谷に降りた、それも通常2日の行程を1日で踏破という唯一のアルプス体験)も、そうした思いがあったればこそだったといえる。
『黒部の太陽』などという一種の宣伝映画を、それなりに感動しながら観たのも、高度成長に向かって、ものづくりの技術への信頼と情熱の高まりを、日本中が共有していた、という今では夢のような時代があったからだ。
皮肉なことに、ダムもでき、誰でも観光バスで簡単にトンネルを通ってそこまで行け、多くの人がその一端にもふれることができる時代になると、その神秘的な輝きは急速に失われていったようにも思える。
三俣蓮華岳付近を源流とする黒部川は、北へ向かって75キロほど流れ下って日本海に到達する。その海岸付近には、長い間に半径5キロもある広大な三角州が生まれ、いくつもの支流があった。地図で見ると、そこだけがメタボ的にぽっこりと盛り上がっているのが、はっきりとわかる。それがその三角州で、その西寄りの先端にあるのが、生地鼻である。
三角州の岬なので、丸くゆるやかに弧を描いていて、極端な出っ張りがなく、高所もないため、灯台は住宅や工場倉庫などが並ぶ海岸の道沿いの平地にある。こういう灯台もめずらしい。
ここに意外なものがあった。外国船の脅威に備えて、幕末にできた砲台の跡である。かわいらしい大砲が、芝草に覆われた土手に鎮座しているさまは、よく言えばユーモラスであり、悪く言えば冗談としか言いようもないが、もちろん当時は大真面目であったろう。
しかし、当時の脅威であった外国船には、ロシア船があったことを思えば、富山湾のここに砲台があるのも、実は意外でもなんでもない。
この岬のある地名の読みは「いくじ」で、地元の言い伝えでは800年以上も昔にはここに村があって海に水没したという。「新治村(にいはりむら)」というその村の生き残りの人々が、新たに「生きる地」というのが転訛して、そういう名になったのだといわれてきた。
だが、「生地」という字面からは、“生の地面”という意味も連想する。三角州の地面は、ナマではなく、すっかり固まったはずの現在でも、そこここから清水が湧き出している。
これも三角州の名残らしい回旋橋のある入江のそばには、弘法の清水(地元では「しょうず」と呼ぶ)という湧き水が、滔々と湧き出していた。清水もいくつかみたが、こんなに勢いのいいのは見たことがなかった。アルプスの峰々の雪解け水が、黒部川を伝い、伏流水となって、ここいら三角州のあちこちで地面に出てくるのだ。生地の駅前にも、そんな清水のひとつがあった。
この駅のそばにはYKK(旧吉田工業)の大きな工場があり、三角州のあちこちにも点在している。生地鼻の隣の松林の影にも越湖工場があり、その名も「吉田」という場所の中心には、「黒部市吉田科学館」という施設のドームが目立っている。これは、YKKの創業者吉田忠雄の残した、記念碑のひとつなのだろう。
隣の魚津出身の吉田忠雄が、初代黒部市長の熱心な誘致で、ここで最初の工場を建てたのは、1958(昭和33)年秋で、それはちょうどでんでんむしがのろのろと黒部の山と谷を歩いて、やっとの思いでここに降りてきた、その1か月後のことだったのだ。
さっそく昭和天皇皇后の行幸行啓があり、駅や工場周辺は大変な人波であふれかえったという。
そのときの昭和天皇の御製、
「たくみらも いとなむ人もたすけあひて さかゆくすかた たのもしと見る」
は黒部工場の前庭に石碑として残されているというのだが、そこまでは行く時間もなかった。
この御製は、吉田忠雄の言う「善循環」にも理解を示されたものと解釈できる。善循環……他人の利益をはからずして、みずからの繁栄はない、世の中には悪循環ばかりが目立つが、その反対の善循環こそが重要で、人間の善意が巡環するような世の中にしなければならない、という有名な彼の経営哲学である。
思えば、企業経営者にこういう人物がいなくなった。それは、いったいなぜだろう。
▼国土地理院 「地理院地図」
36度53分47.18秒 137度24分41.09秒
北越地方(2008/09/07 訪問)
でんでんむしの若い頃のひとつ話の自慢(表銀座の縦走と、八方尾根からの唐松岳越えで黒部の祖母谷に降りた、それも通常2日の行程を1日で踏破という唯一のアルプス体験)も、そうした思いがあったればこそだったといえる。
『黒部の太陽』などという一種の宣伝映画を、それなりに感動しながら観たのも、高度成長に向かって、ものづくりの技術への信頼と情熱の高まりを、日本中が共有していた、という今では夢のような時代があったからだ。
皮肉なことに、ダムもでき、誰でも観光バスで簡単にトンネルを通ってそこまで行け、多くの人がその一端にもふれることができる時代になると、その神秘的な輝きは急速に失われていったようにも思える。
三俣蓮華岳付近を源流とする黒部川は、北へ向かって75キロほど流れ下って日本海に到達する。その海岸付近には、長い間に半径5キロもある広大な三角州が生まれ、いくつもの支流があった。地図で見ると、そこだけがメタボ的にぽっこりと盛り上がっているのが、はっきりとわかる。それがその三角州で、その西寄りの先端にあるのが、生地鼻である。
三角州の岬なので、丸くゆるやかに弧を描いていて、極端な出っ張りがなく、高所もないため、灯台は住宅や工場倉庫などが並ぶ海岸の道沿いの平地にある。こういう灯台もめずらしい。
ここに意外なものがあった。外国船の脅威に備えて、幕末にできた砲台の跡である。かわいらしい大砲が、芝草に覆われた土手に鎮座しているさまは、よく言えばユーモラスであり、悪く言えば冗談としか言いようもないが、もちろん当時は大真面目であったろう。
しかし、当時の脅威であった外国船には、ロシア船があったことを思えば、富山湾のここに砲台があるのも、実は意外でもなんでもない。
この岬のある地名の読みは「いくじ」で、地元の言い伝えでは800年以上も昔にはここに村があって海に水没したという。「新治村(にいはりむら)」というその村の生き残りの人々が、新たに「生きる地」というのが転訛して、そういう名になったのだといわれてきた。
だが、「生地」という字面からは、“生の地面”という意味も連想する。三角州の地面は、ナマではなく、すっかり固まったはずの現在でも、そこここから清水が湧き出している。
これも三角州の名残らしい回旋橋のある入江のそばには、弘法の清水(地元では「しょうず」と呼ぶ)という湧き水が、滔々と湧き出していた。清水もいくつかみたが、こんなに勢いのいいのは見たことがなかった。アルプスの峰々の雪解け水が、黒部川を伝い、伏流水となって、ここいら三角州のあちこちで地面に出てくるのだ。生地の駅前にも、そんな清水のひとつがあった。
この駅のそばにはYKK(旧吉田工業)の大きな工場があり、三角州のあちこちにも点在している。生地鼻の隣の松林の影にも越湖工場があり、その名も「吉田」という場所の中心には、「黒部市吉田科学館」という施設のドームが目立っている。これは、YKKの創業者吉田忠雄の残した、記念碑のひとつなのだろう。
隣の魚津出身の吉田忠雄が、初代黒部市長の熱心な誘致で、ここで最初の工場を建てたのは、1958(昭和33)年秋で、それはちょうどでんでんむしがのろのろと黒部の山と谷を歩いて、やっとの思いでここに降りてきた、その1か月後のことだったのだ。
さっそく昭和天皇皇后の行幸行啓があり、駅や工場周辺は大変な人波であふれかえったという。
そのときの昭和天皇の御製、
「たくみらも いとなむ人もたすけあひて さかゆくすかた たのもしと見る」
は黒部工場の前庭に石碑として残されているというのだが、そこまでは行く時間もなかった。
この御製は、吉田忠雄の言う「善循環」にも理解を示されたものと解釈できる。善循環……他人の利益をはからずして、みずからの繁栄はない、世の中には悪循環ばかりが目立つが、その反対の善循環こそが重要で、人間の善意が巡環するような世の中にしなければならない、という有名な彼の経営哲学である。
思えば、企業経営者にこういう人物がいなくなった。それは、いったいなぜだろう。
▼国土地理院 「地理院地図」
36度53分47.18秒 137度24分41.09秒
北越地方(2008/09/07 訪問)
黒部なら、知ってる、知ってる。93年、夫婦でバスツアー。ちゃんとダムもライチョウも見て、トロッコにも乗って、魚津では蜃気楼だったか海の埋もれ木だったか──なんて考えると、でんでんむしさんの黒部とは似て非なる黒部なんだなあと。
三角州の岬とはめずらしい。「生地」にまつわる貴殿の推理考察も興味深い。拙者にも二三の新説が立てられそうです。
YKK……「善循環」……思い出しました。尊敬される事業家・経営者がいた時代。政治家なども同様の変質で、今や哲学も理想もない。理由のひとつに、明治開化期とか経済成長という時代環境をあげられるのでは──人間の質の低下とは考えたくないものです。
by knaito57 (2008-10-21 08:01)
@ほほう、出不精のknaito57さんでも、黒部ツアーに行っているのですね。これはビックリだなあ。
そうすると、ダムができてからは行っていないでんでんむしのほうが少数派か?
魚津には残念ながら岬がないので寄りませんでしたが、埋没林はおもしろそうです。これが案外、新治村の水没伝説と関係しているのかもしれません。
そうですね、人間の質の低下とは考えたくない…。時代の流れというのは確かに大きいけれど…。
by dendenmushi (2008-10-22 07:53)
面白い
by 園田ありさ (2010-01-20 16:56)
@園田ありささん。おもしろがっていただいて、ありがとうございます。
by dendenmushi (2010-01-20 17:57)