298 下猫崎=呉市広小坪一丁目(広島県)犬はいくつかあるけれど猫の岬はめずらしいんですよ [岬めぐり]
「猫」という名のついた岬は、記憶の範囲では非常にめずらしいといってよい。「犬」は、これもそう多いとは言えないけれど、いくらかはある。この先をさらに東に行ったところにもあるので、それももうじき出てくることになっている。
わりとありふれていて、いつもそこらにいる身近な動物が、十二支にも入っていないのはどうしてだろう?、という素朴な疑問が、あのひとつの寓話を生んだのだが、猫の岬が少ないのも、なにか人と猫との関係について考える材料なのかも知れん。
もっとも、岬の名に動物の名をつけるのは、それ自体が決して一般的な常道・定石でもないらしいので、若干の牛馬を別にすれば、どんな動物であれ少ない。
「小坪」という地名は「小壷」もそうだが、入口が狭く中は深く切れ込んだ小さな湾のことを示す地名として、全国各地にある。『吾妻鏡』には、頼朝が愛人を囲ってしばしば訪れていたという小壷が登場するが、そこは今もマリーナと漁港の小さい町があり、逗子市小坪という名があたりを示す地名として残っている。そういえば、小坪とマリーナという点だけでは、ここ下猫崎と逗子の大崎とは共通する。
この呉市広の小坪は、かつての壷の中の大半が埋め立てられて住宅街になっている。バスの通る旧道がわずかに昔の海岸線を示しているようにも思われ、港の名残は狭い水路として小坪小学校の付近まで入り込んでいる。今では、港は下猫崎が抱え込むようにしてあり、この岬が港をつくっている。
埋立地に展開する住宅街は、行儀よく碁盤目に並んでいるが相当年季も入っているようで、昨日今日の埋立ではないようだが、そこから道路一本で海岸になり、その海と陸を隔てる堤防が、並みの高さではない。
風浪の激しいところでは、高い堤防もいくつもあるし、その最たるものは室戸岬のそばの漁港を守る堤防だろう。だが、ここは内海である。瀬戸内海である。それでも、こんな高い堤防をつくらなければならない、確かな理由と人々が納得する根拠があったものだろう。
ここは呉市の広というところの最南部にあたる。広小坪、広長浜、広白岳、などと「広」を冠した地名がたくさんあるが、もともとは吉松山という300メートル足らずの山の裾が「広町」といわれていた。黒瀬川が流れ、それがつくり出す平地に町が広がっていったのだろうが、「広」というにはさほど広くもない。
広駅前から、うまい具合に白岳循環という小さなバスに乗って広小坪までやってきたが、白岳山という360メートルほどの山をぐるりと回るようになっているらしい。このさらに東に行くと仁方町になる。ここは、今のようにそこいらじゅうに橋が架けられる前、四国と結ぶ数少ない連絡船の航路があったところなのだが、“ヤスリ”の産地としても有名だった。今ではそのことを知る人も少ないのだろう。いや、ヤスリそのものを知らない人のほうが、もっと多いのではなかろうかと気がついた。
仁方には行かず、ここから長浜に引き返そうと、もう一度振り返って下猫崎を見ると、岬の中程にもうっすらと白い靄が流れはじめていた。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度12分8.05秒 132度38分8.78秒
中国地方(2008/07/15 訪問)
わりとありふれていて、いつもそこらにいる身近な動物が、十二支にも入っていないのはどうしてだろう?、という素朴な疑問が、あのひとつの寓話を生んだのだが、猫の岬が少ないのも、なにか人と猫との関係について考える材料なのかも知れん。
もっとも、岬の名に動物の名をつけるのは、それ自体が決して一般的な常道・定石でもないらしいので、若干の牛馬を別にすれば、どんな動物であれ少ない。
「小坪」という地名は「小壷」もそうだが、入口が狭く中は深く切れ込んだ小さな湾のことを示す地名として、全国各地にある。『吾妻鏡』には、頼朝が愛人を囲ってしばしば訪れていたという小壷が登場するが、そこは今もマリーナと漁港の小さい町があり、逗子市小坪という名があたりを示す地名として残っている。そういえば、小坪とマリーナという点だけでは、ここ下猫崎と逗子の大崎とは共通する。
この呉市広の小坪は、かつての壷の中の大半が埋め立てられて住宅街になっている。バスの通る旧道がわずかに昔の海岸線を示しているようにも思われ、港の名残は狭い水路として小坪小学校の付近まで入り込んでいる。今では、港は下猫崎が抱え込むようにしてあり、この岬が港をつくっている。
埋立地に展開する住宅街は、行儀よく碁盤目に並んでいるが相当年季も入っているようで、昨日今日の埋立ではないようだが、そこから道路一本で海岸になり、その海と陸を隔てる堤防が、並みの高さではない。
風浪の激しいところでは、高い堤防もいくつもあるし、その最たるものは室戸岬のそばの漁港を守る堤防だろう。だが、ここは内海である。瀬戸内海である。それでも、こんな高い堤防をつくらなければならない、確かな理由と人々が納得する根拠があったものだろう。
ここは呉市の広というところの最南部にあたる。広小坪、広長浜、広白岳、などと「広」を冠した地名がたくさんあるが、もともとは吉松山という300メートル足らずの山の裾が「広町」といわれていた。黒瀬川が流れ、それがつくり出す平地に町が広がっていったのだろうが、「広」というにはさほど広くもない。
広駅前から、うまい具合に白岳循環という小さなバスに乗って広小坪までやってきたが、白岳山という360メートルほどの山をぐるりと回るようになっているらしい。このさらに東に行くと仁方町になる。ここは、今のようにそこいらじゅうに橋が架けられる前、四国と結ぶ数少ない連絡船の航路があったところなのだが、“ヤスリ”の産地としても有名だった。今ではそのことを知る人も少ないのだろう。いや、ヤスリそのものを知らない人のほうが、もっと多いのではなかろうかと気がついた。
仁方には行かず、ここから長浜に引き返そうと、もう一度振り返って下猫崎を見ると、岬の中程にもうっすらと白い靄が流れはじめていた。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度12分8.05秒 132度38分8.78秒
中国地方(2008/07/15 訪問)
タグ:広島県
初めまして。小坪で検索したらヒットしました。
アラメの鼻の記事も読ませていただきました。
「猫」がつく岬は珍しいものなんだと、初めて知りました。
お察しの通り、小坪の埋め立ては昭和30年代ぐらいだと聞いてます。
(伝え聞いただけで、詳しいことはわかりませんが)
ここら辺は、大きな台風が直撃すると、かなりの大打撃を受けてしまうところで、小坪で高い堤防のある場所辺りは、何度も浸水を受けているそうですし、テトラポットだらけのアラメの鼻の道路も、平成3年の19号、平成16年ごろの台風でも崩されて、現在の状態はその後のものです。
市街地より少し離れていますが、台風がなければ、冬は雪も少なく温暖で、のどかな過ごしやすい場所です。
by 小坪の端の住人 (2008-10-12 16:25)
@「小坪の端の住人」さん、コメントありがとうございました。やはりねえ、台風がねえ。そうですか。
高波などの被害をモロに受けそうな地形でしたからね。
しかし、広の人からのコメントをもらったのは、大変にうれしいです。
実は、でんでんむしの先祖にゆかりのある土地なのです。
そのことは、阿賀の観音崎や音戸の瀬戸の清盛塚など、他の項目のところでもちょっと触れていますが…。
でんでんむしの岬めぐりは、ごくマイナーな“ひきこもりブログ”なので、これをみてくださる方々の大部分は、「小坪の端の住人」さんのように検索で拾ってくださる方なのです。
この検索の鍵になるキーワードですが、これまで、ほったらかしにして自動的につけられるままにしていたのです。
ところが、これがずいぶんといいかげんであることに、最近気がつきました。
これからは、キーワードも、自分で設定するべきかなと思いはじめているところです。
「小坪」の場合は、それでよかったのですがね。
by dendenmushi (2008-10-16 08:37)
祖父の実家が小坪です。下猫崎からちょっと上がった所に
お墓もあり、現在は父も旧小坪に住んでいます。
埋め立てが竣工したのは昭和49年ですね。
小さいころ、まだ埋め立て前だった浜で遊んだ記憶があります。
道路も本当は上を通す計画があったんですが、莫大な費用が
かかるため、廃案になったそうです。
うちもそちらの団地へ引っ越そうかという話もあったみたいですが
埋立地で、高潮と地盤沈下が心配なのでやめたそうです。
小坪の端の住人さんがおっしゃってるように台風被害が
酷いところなので。
by ゆうがん (2010-11-24 15:38)
@ゆうがんさん、おたくの家も代々白岳山の麓に住んで来られたわけですね。「小坪の端の住人」さんとともに、広小坪の関係者が二人もコメントを寄せていただくとは…。
おまけに、阿賀の観音崎(冠崎)についてや、休山について検索していて寄ったという方まで、この呉周辺については、異常に反応があるのが不思議です。
たった数人ではありますが、ひきこもりでんでんむしブログでは、こうしたことはほかではあまりないことです。やはり、でんでんむしの先祖にもゆかりがある地なので、パワースポットなのかもしれん…。
埋め立て前の小坪の浜で遊んだとは…。やはり小坪の造成は比較的新しいんですね。小学校付近から団地にかけての道が、妙に印象に残っています。
しかし、内海でそんなに台風が荒れる場所とは、意外でしたね。
by dendenmushi (2010-11-25 10:06)
以前に観音崎(冠崎)にコメントしたことがありますが,久しぶりに再度観音崎以外の近隣の岬を読ませていただいて,「小坪」が琴線に触れたのでコメントさせていただきました。
小坪には最近は行っていませんが,色々思い出すことがあります。
子どもの頃は冠崎に住んでいたので長郷小学校に通っていましたが,遠足の時に学校から長浜までバスで行き,そこから歩いて「アラメノ鼻」を通り,小坪を過ぎて戸田の安芸の小須磨まで行った記憶があります。
長郷小学校は廃校になり,借地に建てられていたので現在は跡形もありません。HPは当分の間ありましたが,今はなくなっています。バス停名も「長郷小学校前」から「長郷」に変わっています。
私が就職してまもない頃に,小坪に住んでいた職場の年配の方が所属課全員(20名)を下猫崎にある殿山マリーナ(今もあるのかな?)に招待してくれて,ごちそうを振る舞ってもらったこともあります。
25年位前に友人が下猫崎東方高台の団地に家を建てて,眼前の海峡や島々を眺めて「エーゲ海のようだろ」と喜んでいました。
あるとき,職場の人がヨットに誘ってくれて小坪沖に行ったとき,「陸の方を見て何か気付かない?」と私に言いました。私は「???」,「防波堤をよく見て」と言いました。
防波堤が傾斜して海面に沈み込み,くさびを横にして互い違いに重ねたようになっていました。
埋立地が沈下したため,当初の防波堤の上に重ねて積み増しするカタチで新しい防波堤が作られていたのです。
若いときはオートバイにまたがってこの辺を徘徊し,結婚してからは妻とたびたびドライブしていました。
久しぶりに行ってみようかな,と思っています。
by 阿賀もの (2013-10-24 11:18)
@阿賀もの さん、おひさしぶりのコメントありがとうございます。お変わりなくお過ごしのようでなによりです。
この下猫崎の防波堤が、異様に高いようにこのときは感じました。今では、もっと高い防波堤がどんどん計画されているようですね。(室戸のがこれまで見たのではいちばんでした。)
この防波堤が、その積み増しをしたものなんですかね。いや、ここは外側はテトラでおおわれていました。今度行かれたら、確認してきてください。(~~;
大崎島なんかも行きたのですが…。
by dendenmushi (2013-10-25 15:34)
阿賀ものです。
今日(10/28),ママチャリで,広から長浜,アラメノ鼻,下猫崎,安芸の小須磨,仁方を巡ってきました。
アラメノ鼻手前で下猫崎が見えてきました。
アラメノ鼻はでんでんむしさんが書かれているように,海岸線が少し曲がっているだけで特に何?といえるものはありません。
何か記すべきネタになるものはないかと目をこらして見回しましたが何もありませんでした。
ネットで「呉市 アラメノ鼻」で調べてみても参考になる情報は出てきませんでした。これは本日の本題ではないので,後日何か分かったら「アラメノ鼻」に投稿したいと思います。
これからが本日の本題です。
アラメノ鼻手前から下猫崎が見えてきて,テトラポットが敷かれた小坪の防波堤が見えてきたので,写真を撮ろうと思ってデジカメを取り出したら「ン,ちょっと軽いのかな」と思いつつカメラの電源ボタンを押しても反応しない。再度ボタンを押しても反応なし。「?」と思いつつ,バッテリー蓋を開いてみたらカラッポ。ガクッ。バッテリーが入っていないので少し軽いしボタンを押しても動くワケはないよネー。
ママチャリで取りに帰る気力もないので,とにかくとりあえず防波堤の二段構造を確認しておこうと考え,気を取り直してチャリを漕いで現場に行きました。
道路側から見る防波堤には斜めに継ぎ足した形跡は見えませんでした。
防波堤に上がって確認したかったのですが,高すぎてよじ登る取っ掛かりも見当たりません。(6段目の写真参照)
防波堤に沿って進み下猫崎に沿って海側に進むと,埋立地の防波堤と平行に船だまりの防波堤が伸びていたので,埋立地の防波堤を見ながら突先まで歩いて継ぎ足した形跡を探しましたが,テトラポットに覆われていて分かりませんでした。
2段目の写真では,左に埋立地の防波堤とテトラポット,中央に下猫崎と船だまり,右端が船だまりの防波堤が見えます。
孫と散歩に来ていた年配女性がいたので,埋め立て後の傾斜した防波堤と追加工事した防波堤のことを聞きました。
「防波堤のことは知らないが,埋立地が沈下したことは知っています。」と話してくれたが,それ以上のことは分からない様子でした。
埋立地防波堤の下猫崎側に引き返すと,手前に段差があって防波堤に上がれる場所を発見したのでそこから上がりました。
防波堤とテトラポットを下りたり上がったりしながら長浜側に進んで防波堤を継ぎ足した形跡を探しましたが,分かりませんでした。
テトラポットの下は大きい石が敷き詰められており,テトラポットを支える石畳のようになっていました。
当初と追加された防波堤は土手のようなもので現在のように堅固なものではなかったため台風などにより崩壊したので,再々工事して防波堤全体を作り直したのではないかと思います。
この点については,広島県や呉市の災害情報や工事情報などを調べて,何か分かりましたら改めて投稿したいと思います。
防波堤を後にしてチャリを漕いで市道に出て,少し上り坂になった下猫崎側に入る車道脇に「社団法人呉自動車学校職員寮殿山荘」の看板がありましたが,車道は鎖で閉鎖されていました。
下猫崎がある半島状の小山は「殿山」という山名なのでしょうか。
緩い峠を過ぎて再び海に出た所に「シートピア殿山」というレストラン風の建物が廃墟になっており,道路に沿ってフェンスで遮られていました。
昔はここにマリーナがあったのですが,水上バイクをかたどった「殿山マリーナ」と書いた古い立て札が名残をとどめていました。
引き続きチャリを漕いで安芸の小須磨に着きました。
ここにあるお宮は磯神社といい,白井姓の寄進が多いようで,白井水軍の子孫がこの戸田地区に住んでいると想像できます。
賽銭をして拝んだ後,再びママチャリ漕いで仁方に出て,185号線を阿賀に向かい帰宅しました。
では今日はこの返で・・・
by 阿賀もの (2013-10-29 01:35)
@阿賀もの さんの詳しいレポート、ありがとうございました。やはり、小坪の堤防は、地盤沈下などもあって、堤防自体も上に積み重ねを繰り返してきたのかもしれませんね。
確かに、あの学校のあるあたりは、いかにも地面が低いような感じがしていました。
ママチャリでの大遠征、お疲れ様でした。
by dendenmushi (2013-10-30 06:47)
広小坪
私の実家が小坪です。
>下猫崎がある半島状の小山は「殿山」という山名なのでしょうか?
そうです昔から「殿山」といいます。
その昔 広島の浅野の殿様が台風に会い流れ着いたそうです。
その時「長屋某」という人物が殿様を助けそのお礼にこのあたりの漁業権を与えられたそうです。
それに因んでそう呼ばれているのではないでしょうか?
殿山の前の 今自衛隊の住宅があるあたりでは埋め立てが始まる前には真珠の養殖や車海老の養殖をしていた人もいましたがうまくいかなかったようです。
また、旧道と新道が交わるあたりに石灰岩がむき出しで突き出たところが有り石英の結晶とか見るけることもありました。
白岳山からは石灰岩を切り出しその積出港となっていました。
by peita (2016-02-22 23:16)
@peita さん、「殿山」は浅野の殿さんなんですか。なるほどねえ。養殖もうまくいけばこの地域もずいぶん変わっていたかもしれないですね。
白岳はやはり石灰岩でしたか。
それにしても、この下猫崎でこれだけ多くのみなさんからコメントをいただけるとは…!
by dendenmushi (2016-02-23 05:53)
peitaです。
埋立地の地盤沈下は 埋立の仕方に問題があったと思います。
なぜなら ペドロの様な泥も埋立に使われていました。
埋立が終り家が建ち始めてから 傾いたりした家もありました。
家の中でビー玉が低くい方に転がっていたと聞いた事がありました。
今でも陸側から防波堤の方にのびる道はうねっています。
当時も問題になっていたと記憶しています。
殿山マリーナは 当初 現在の漁港の所にありました。
その後、殿山の反対側に「シートピア殿山」が出来たときに移動しました。
その辺りは 「ぼらあみ」と呼ばれており 昔は、鯔をとる為に地引き網が行なわれていました。今は、わかめの養殖をしているようです。
by peita (2016-02-24 00:19)
@そうだったんですか。あちこち歩いたわけではないのですが、小学校から住宅地の道を歩いていたとき、ずいぶん沈んでるような気がしたのを思い出しました。
仁方のほうにも、機会があれば行ってみたいですね。
by dendenmushi (2016-02-26 05:28)