275 明神崎=水俣市明神町(熊本県)流れ着いた明神さまと消えた漁村 [岬めぐり]
実は、広大な水俣広域公園の埋立て地は、汚染された水俣湾の浚渫とそのヘドロの処理のためにできたものらしい。港も今の場所から1キロ近くも百間川にそって内陸に入ったところにあったわけで、埋立て前の姿を想像してみると、百間町の港からは西側に小高い峯が細長く突き出しており、その手前は汐見町といい、先端の部分を明神町といった。小高い丘の裾は海岸で、渚に沿って漁村の集落が連なっていたであろう。明神崎は、その先っちょである。
そして、明神崎の向こうに見えるのは、天草の御所浦島である。石牟礼道子さんも生まれは天草でそれからすぐ水俣にやってきたというが、この辺りでは昔から天草から嫁にきたという人も多かったようだ。こうしてみると、それもうなずける。
今でも町名はそのままだが、汐見町と明神町の南側に水俣の湾に接して伸びていたであろう海岸線とそこにあったであろう漁村は、海が埋立てられた今、海岸がなくなっているのだから完全に消えてしまっているように見えた。明神崎は、恋路島の塔の崎と向き合うようになって、湾の入口をつくっていたはずだが、今では片側半分が埋立地に接していて、その先にも小さな船溜まりができている。これはかつての明神の漁村の名残なのだろう。ここから漁に出る人も、少ないながら今もあるのだろう。漁村も完全に消えたというわけではないようだ。
ただ、恵比須崎からずっと北上してきた道のりでも、途中の袋、茂道、湯堂、月浦といった集落でも、漁業も昔のような盛んな姿はもはやどこでも想像できなくなっていた。
明神町や汐見町の高台から望むと、水俣の海は遙か遠くになってしまっている。
明神崎というからには、この岬には明神様があるはずだ。先端の石段を上っていくと、確かにあった。そして、そこにある由来が、なかなかおもしろい。
水俣の町の北を流れる水俣川の上流に、宝川内川という支流が、山間にうねっている。元禄の昔、その村の吉花という集落の木造の氏神様が、豪雨で流されてしまった。そこで村人は、手を尽くして探したが見つからない。そのうちに、どこからともなく海岸の漁村で漁師に拾われて祀られているらしいという話が伝わってきた。さっそく、われらが氏神様を連れ戻すべく、代表がこの明神崎へやってきたが、運ぼうとすると、木像が重くなって持ち上がらない。これはきっと、ワシはここが気に入ったここにいたいということに違いないと、吉花の人々は連れて帰るのをあきらめ、その代わりに年に一度ここにお参りに来るということにした、というのである。
現在の明神様は石像で、これは木像が傷んできたので、地元の地主が昭和35年に寄贈したものだというが、この由来の掲示は平成13年に吉花の氏子たちによって建てられている。
その末尾に曰く。
「この岬の下に漂着され、そのままここに居座って帰らなかった氏神さまの真意は知る術とてないが、現在の水俣の海を予知されていたかのように思い知らされるものがあり、わが氏神さまの偉大さが感じられ崇拝するに至る。」
現在の地図で探してみると、宝川内川はあるが、吉花という字名は載っていなかった。
そして、明神崎の向こうに見えるのは、天草の御所浦島である。石牟礼道子さんも生まれは天草でそれからすぐ水俣にやってきたというが、この辺りでは昔から天草から嫁にきたという人も多かったようだ。こうしてみると、それもうなずける。
今でも町名はそのままだが、汐見町と明神町の南側に水俣の湾に接して伸びていたであろう海岸線とそこにあったであろう漁村は、海が埋立てられた今、海岸がなくなっているのだから完全に消えてしまっているように見えた。明神崎は、恋路島の塔の崎と向き合うようになって、湾の入口をつくっていたはずだが、今では片側半分が埋立地に接していて、その先にも小さな船溜まりができている。これはかつての明神の漁村の名残なのだろう。ここから漁に出る人も、少ないながら今もあるのだろう。漁村も完全に消えたというわけではないようだ。
ただ、恵比須崎からずっと北上してきた道のりでも、途中の袋、茂道、湯堂、月浦といった集落でも、漁業も昔のような盛んな姿はもはやどこでも想像できなくなっていた。
明神町や汐見町の高台から望むと、水俣の海は遙か遠くになってしまっている。
明神崎というからには、この岬には明神様があるはずだ。先端の石段を上っていくと、確かにあった。そして、そこにある由来が、なかなかおもしろい。
水俣の町の北を流れる水俣川の上流に、宝川内川という支流が、山間にうねっている。元禄の昔、その村の吉花という集落の木造の氏神様が、豪雨で流されてしまった。そこで村人は、手を尽くして探したが見つからない。そのうちに、どこからともなく海岸の漁村で漁師に拾われて祀られているらしいという話が伝わってきた。さっそく、われらが氏神様を連れ戻すべく、代表がこの明神崎へやってきたが、運ぼうとすると、木像が重くなって持ち上がらない。これはきっと、ワシはここが気に入ったここにいたいということに違いないと、吉花の人々は連れて帰るのをあきらめ、その代わりに年に一度ここにお参りに来るということにした、というのである。
現在の明神様は石像で、これは木像が傷んできたので、地元の地主が昭和35年に寄贈したものだというが、この由来の掲示は平成13年に吉花の氏子たちによって建てられている。
その末尾に曰く。
「この岬の下に漂着され、そのままここに居座って帰らなかった氏神さまの真意は知る術とてないが、現在の水俣の海を予知されていたかのように思い知らされるものがあり、わが氏神さまの偉大さが感じられ崇拝するに至る。」
現在の地図で探してみると、宝川内川はあるが、吉花という字名は載っていなかった。
注記:buzzmap のほうにゆきやんさんから、次のようなコメントをもらっていた。
「吉花は宝川内 新屋敷になっています。戦前小学校の分校がありその付近に明神さまは祀られて
いたのでは ないかとおもわれます。」2008/06/13
by ゆきやん
「新屋敷」という表記は、ちゃんとある。なるほど、ここがそうだったのか。
今、明神崎の上は広く園地になっていて、水俣病資料館などもできている。明神崎からは岬自体の展望は利かないが、北側には木々の間に二子島が見えている。
その岬の姿を北の二子島のほうからみると、熊本県の環境センターなるものの屋根が大きく見える。
▼国土地理院 「地理院地図」
32度12分11.38秒 130度22分22.71秒
九州地方(2008/04/19 訪問)
タグ:熊本県
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