番外:三内丸山遺跡=青森市大字三内(青森県)さんまるくんこんにちは [番外]
こどもの頃には、考古学者になりたいと思ったこともある。古い古い大昔のことなどほじくり返してどーなる、というごくごく常識的な判断よりも、何千年何万年も前のこと、その時代に生きていた人々が、日々どんなことを思い、どんな暮らしをしていたのかを知りたいという、いささかまっとうとはいえない興味を先行させようとしたのは、果てしのない時間の流れのなかに巻き込まれ流されることを夢見ていた、空想少年だったからだろう。(同じく番外で宮崎の西都原古墳群のところで、すでに同じことを書いていたかと心配になって確かめてみたが、重複はしていなかった。)
後年になってもその興味は消えず、いろいろな本を読んではいたが、青森県の三内丸山などという縄文遺跡にまともに言及したものは、ほとんどといっていいほどなかったはずである。
考古学の本を読んでいていちばんの不満は、ち〜ともおもしろくないことである。これは専門家といわれる人たちの想像力のなさと、あってもそれを表に出せない閉鎖的・排他的な土壌が支配しているからだろうと、何冊か読んでいるうちにシロウトでも推測がつくようになってきた。そのひとつの要因は、実証主義といわれる学術研究の姿勢が、推論と想像力の羽ばたける空間を必要以上にせばめてしまったことではないかと、シロウトの勝手な意見では思う。
けれども、近年ではそういったことも少しは改められてきたようである。三内丸山遺跡のシンボルにもなっているこの塔の復元も、推論を大きく展開して初めて可能になったのかも知れない。
青森県が県営野球場建設工事のために掘り返したとき、これまで前例のない巨大な集落跡が姿を出現し、膨大な量の土器や石器などの生活関連遺物や土偶などの祭祀遺物が出土した、というのが大ニュースとして報じられる平成4年まで、ほとんどの人が知らないか、無関心であった遺跡は、今や史跡の中でもとくに重要な特別史跡になっている。
このニュースとその後の一連の騒ぎで、初めて“こんな北のほうに縄文遺跡があったのか”という意外な感に打たれた人も多いはずだが、この岬めぐりでもときどき触れているように、北海道にも東北にも縄文遺跡はたくさんある。現代の人は平成4年までほとんど知ることがなかったこの遺跡も、江戸時代の紀行家菅江真澄はすでに寛政年間ここを訪れていて、土器や土偶の精巧なスケッチと考察を残していた。発掘調査もそれまでまったく行なわれていなかったわけではなく、戦後も数度の調査があったが、それらもほんの一部をつついただけだった、ということになる。それで、ほとんど誰も知らなかった。
しかし、“さんまるくん”にとって、これまでほとんど知られていなかったことも、本格的な発掘調査が遅れたということも、かえって幸いだった。(展示品の写真は、隠れてこっそり撮ったわけではない。写真撮影自由なのである。今では東京国立博物館もそうなっているが、そのほうが正しいありかたである。)
世論の興味も高まり、野球場より大規模な調査が必要であるという意識や、それを可能にする技術もより高度になってからの調査発掘は、怪しげな“神の手”などの介在する余地も残さず、偏狭な一部の学者の判断でなく、開かれた学際的な研究を可能にしたのではないか。それは、とても幸運だったともいえる。
高松塚飛鳥美人の不幸は、発見されるのが早過ぎたことだ。それは、管理能力ゼロを露呈した文化庁やその他のすったもんだのなにやかやを経験した今にして、やっとわかる。
だいぶ昔のこと、まだ中国が海外からの旅行者をやっと受け入れ始めた頃に、「明の十三陵」を見学したことがある。その名の通り13もの陵墓があるのだが、中国政府はひとつだけしか発掘公開していなかった。その理由を尋ねると、「いまのわたしたちの技術では、あまり発掘の手を広げ過ぎることは遺跡にとってよくない。もっと後世の人が、ちゃんとした調査ができるように保存しておくのがわたしたちの責任だ」という答えが返ってきて、さすが気の長い中国だと驚いたことがある。
初めて訪れることができた三内丸山遺跡は、馬蹄形のビジターセンターから発掘品の公開展示の方法まで、なかなかよく考えられていて、うまくできていた。
むりやり岬めぐりにことよせる必要はないのだが、その当時の三内という場所には、岬のひとつもあったかも知れない。いまは海のそばの青森駅から、内陸へ入ったところにあるが、八甲田の山並みからのいく筋もの川が運んできた州で、現在の市街地は形成されたと思われる。遺跡の場所は、縄文当時は比較的海にも近かったはずである。
ここに多くの縄文人が狩猟採取で暮らしながら、集団で祭祀なども行なっていた時代が、10,000年も続いていたと思うと、気が遠くなる。そして、その時代、遠く海を越えたイギリスではストーンヘンジが、エジプトではクフ王のピラミッドが、パキスタンではモヘンジョダロがつくられていたのだと思うと、なんだか心楽しくなる。
▼国土地理院 「地理院地図」
40度48分40.94秒 140度41分50.02秒
東北地方(2007/06/26 訪問)
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