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156 相泊岬=檜山郡江差町字柏町(北海道)あれからニシンはどこへいったやら〜 [岬めぐり]

 上ノ国が“北海道発祥の地”となったのは、天の川という川を有し、背後に山を控えた守りに有利な自然地形にあったからだろうが、経済活動中心の時代になると、大きい港も人が多く集まる開けた後背地も必要で、そのためだんだんと江差のほうが重きをなすようになったのだろう。
 この江差に発展の歴史をもたらした主役は、ニシン(鰊)であった。ニシンは昆布とならんで、日本海を南下する北前船の主要な積み荷だった。あわせて「桧山」という名が象徴するように、桧材の供給地としても栄え、江戸期から明治の始めにかけて、「江差の五月は江戸にもない」とまでいわれる繁栄ぶりをもたらすのだが、やがて「あれからニシンはどこへいったやら〜」になってしまう。
 その理由はいまでも解明されていないらしいし、もちろんカモメに聞いても波に聞いてもわからないが、明治に入るとだんだんニシンはこなくなってしまう。乱獲が原因だともいわれて、大網を禁止したりするが、ニシンの大群が押し寄せるのは8〜10年周期になってしまう。それでも、北のほうではまだニシンが獲れたので、江差の賑わいもニシンとともに北へ移ってしまう。明治の終わりに10年ぶりの大群が押し寄せたときには、江差の浜には漁ができる人も船も漁具も、もうなかったのだという。哀しい話だ。
 そして、ついに大正2年を最後として、この江差のニシンは完全な幻となってしまうのだ。

 江差の町は、海岸線を228号線が走っていて、その一段高くなった山側の台地に広がっている。
 南のはずれといってもいい柏町には、小さな港があって、なぜかここの突堤に相泊岬という立派な名前がついているのだが、タクシーでこの町に入るときも、江差線に乗ってこの町を出るときも、その写真が撮れなかった。しかたがないので、大潤ノ崎とケブレ鼻からの遠望で誤魔化しておく。
 南の柏町から北の愛宕町まで人家が密集し、そのほぼ中央に鴎島があり、津花の港から台地に上って北へ続く道は、いまでは昔の江差の繁栄をしのぶ通りとして、そのなかにニシン漁の網元の家なども取り込みながら、明治の面影と風情を残す家並をつくり残すよう、懸命の努力がされているようだ。電柱を地下に埋設し、銀行も商店も民家も、こぞって昔風のつくりにしているのに、郵便局だけが白く浮き上がっていた。泊ったビジネスホテルも、この通りにあってその名も「寺子屋」というが、ここの建物も明治の洋館風にしてあった。
 それは、いまあちこちで盛んな町おこしのひとつの手法でもある。決して悪いことではないが、かつての繁栄をなんとか忘れないようにしようという、はかない努力でしかないようにも映る。

 JR江差駅は、終着駅・始発駅だが、役場などがある町の中心より相泊岬のほうにずれた位置にあり、駅の先にはまだ少し線路が未練がましく延びている。おそらくは、当初からここが終点として計画されていたのではなく、もう少し先まで延伸するつもりだったのだろう。
 ところが、ニシンがこなくなって、その計画も頓挫してしまった…というところではないだろうか。あくまでも勝手な憶測だが、町を歩き地図をみながらそんなことを考えてしまう。
 だが、この線が最初に軽便鉄道として開通したのは、大正2(1913)年であるから、ニシンがマボロシとなるのとほぼ軌を一にしている。となると、当時のニシン漁には港よりも浜が重要だったとしたら、この相泊岬の両側に広がる浜辺こそ町の中心であったはずで、鉄道の駅もこちらにあるほうが自然だ、という推理も成り立つ。もし、そうだとしたら…。
 ニシンの話が、タラの話になってしまった。


 町には立派な江差追分会館があり、津花通りにも名人達が開いている民間の追分道場がある。この町ではこどものころから道場に通って追分節を学ぶというのがすごい。
 ニシン景気は、本州から近江商人など多くの人を集めたらしい。『江差追分』の歌詞が、鴎の鳴く音にふと目を覚ましたあと、「…あれが蝦夷地の山かいな」と続くのは、この追分節も人といっしょに本州側から運ばれてきたものが、独特の発展をしてここに定着したことを示しているのではないか。
 江差のニシンが北へ移動していった後に、その舞台も移り変わっていく。作詞家なかにし礼の『石狩挽歌』の背景には、彼自身がその私小説で吐露した人間の欲の哀しさがあり、「オンボロロ」と詩っているような気がする。
 およそ発展などというものは、その美名の陰に常に人間の欲を肥やしとして成り立っているものではあるが、ニシンのこなくなった江差が、どのような道筋をつくるのか、それは昔の面影を再生することの先に見えてこなければならないのだろう。
 それにしても、ニシンソバを食べ損ねたのは残念! これも欲なんだけど…。

 そうそう、おもしろい羊羹をみつけたので、お土産に買って帰った。「五勝手屋羊羹」という名前もおもしろいが、筒型になった羊羹を糸で切りながら食べるというのがおもしろい。包装もいかにも明治っぽくっていい。後で気がついたのだが、この下の地図をマウスでちょっとずらしてみてもらうと、「五勝手保育園」というのが出てくるし川の名もある。地名だったのだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度50分52.58秒 140度7分24.18秒
156そうはくみさき-56.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2007/06/26 訪問)

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タグ:北海道
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