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154 大潤ノ崎=檜山郡上ノ国町字原歌(北海道)ナゾの「北海道発祥の地」 [岬めぐり]

 大潤ノ崎までやってくると、ここは広く明るく開けた岬で、きれいに園地も園路も整備されているが、ブロックががたがたになっていたり、草が敷石の間に根付いていたり、やや荒れた感じも漂わせている。こういう公の土地を公園として整備開放するのはとてもいいことだと思うが、なにかいまいちおもしろくない。
 日本中どこへ行っても、こういう岬はたくさんあるが、どこでもそういう感じがしてしまう。どこも同じ業者がプランして請け負ったのではないかと思うくらい、画一的で特徴がないことも、その原因であろう。
 とはいえ、これにもむずかしい面があって、あまり自然の地形に手を加えずに整備しようと思えば、ある程度はしかたのないことも想像できる。しかし、こういうところにやたら意味不明のオブジェを立てたりする必要が、どこにあるのかなあ。ここのはまだ許せる範囲内だし、擬木の柵が張り巡らしていないだけでもはるかにマシなのだ。

 そのオブジェのかなたには江差の町も見える。「道の駅」の建物があったので、寄って一休みと思ったら、鍵が架かっていて閉まっている。まだ5時前なのに…。
 一休みはお預けにして、再び228号線に戻り長い坂をゆっくり下って上ノ国の町中へ向かう。途中、アカシアの大木が並木のように並んでいるところがあって、折からの風に吹かれて、さらさらと花が舞う。まさしく“アカシアの雨にうたれて”である。今のところ、“このまま死んでしまいたい”という心境でもないので、そのまま歩き続けると、街道の脇に家並みが続くところにでた。

 古いお寺や、古い民家がある。近づいてみると、それは国の重要文化財である「旧笹浪家住宅」という標識板があった。これが18世紀はじめから続いた鰊漁の網元の家だったという。
 もうバスもないし、駅まではまだだいぶあるうえに江差へ行く電車の便もよくないので、タクシーに乗りたいと思ったが、タクシーを呼ぼうにもどこをどうみても公衆電話のひとつもない。しかたなく、最初に見かけたコンビニ風の店に飛び込んで電話を借りようとしたら、店の人が親切にタクシー会社に電話して呼んでくれた。電話代をおこうとするといらないというので、飲み物とチョコレート・のど飴などを買ってお礼をいい、外にでて待つまもなくタクシーはやってきた。町の中心はそう遠くないらしい。
 ここから江差へ行くには、その名も天の川という川を渡って、江差線の上ノ国駅を経由し、海岸の道を9キロばかり走ることになる。
 運転手さんに「ここはずいぶん歴史のありそうな町ですね」と水を向けると「古いですよ。いろんな遺跡もありますからね」という。“カミノクニ”はひょっとすると“神の国”ではなかったのかという疑問をぶっつけてみると、「いや、それはないでしょう」という。そんな会話を交わしながら走っていると、“北海道発祥の地”というでかい看板を見かけた。「おや、“北海道発祥の地”なんですか、ここが…」というと、運転手さんも「そうらしいです」といい、それ以上は知らないようだった。
 まったく予備知識もなく、ほとんど通り過ぎたにすぎない町だが、「なぜここが“北海道発祥の地”なのか」それがどうも気になる。北海道には、“○○発祥の地”というのは、実は無数にある。それが日本の近世では「新世界」そのものだったからだ。しかし、“北海道発祥の地”となれば、これは“タコしゃぶ発祥の地”というのとはレベルの違う話だ。ナゾである。
 例によって、帰ってきてインターネットで調べてみると、そのことについては町のホームページでは、なんら言及していない。だが、いろいろなページをみていくとそういう看板が別に山の上のほうにもあるらしいし、上ノ国中学校の学校案内には、「“北海道発祥の地”上ノ国町」と書いてあるし、北海道庁檜山支庁のページには「北海道発祥の地ともいわれ、長い間北方交易の拠点として繁栄してきた上ノ国町」という表記があった。
 それにしても、なぜここが“北海道発祥の地”なのか?
 改めて町の歴史を辿ってみると、武田信広が松前氏の祖となる前には、和人は館(たて)と呼ばれる城館にこもって和人支配地の拡大を計ろうとしており、15世紀には道南に12以上の館があったという。要するに和人は、蝦夷地にやっと取りついたとはいえ、まだ点としての拠点しかもっていなかったのだろう。
 ここ上ノ国の花沢館もそのひとつであったが、劣勢だったコシャマインとの戦い(1457年)で、つぎつぎと館は陥落していくなか、館主蛎崎季繁の客将としてどうにか花沢館を持ちこたえ、踏みとどまり、戦後の和人の指導者の地位を獲得したのが、武田信広だったというのだ。信広はここに勝山館をつくり、「200戸以上の和人とアイヌ民族が一緒に暮らしていた」という。
 “北海道発祥の地”という茫漠とした表現の裏には、和人がアイヌとの大きな戦いの末に、最初にその生存土着の拠点を確保し、アイヌもそれを認めざるをえなくなって、和人がなんとか安全に暮らし交易ができるようになった最初の土地、ということがこめられているのだろう。そして、上ノ国町自身は、あえてそういう表現を使用しないでいるというのも、なぜか理解できる。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度48分33.28秒 140度5分44.38秒
154おおまのさき-54.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2007/06/25 訪問)

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タグ:北海道
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きた!みた!印 2

コメント 5

knaito57

アハハ。「やたら……オブジェ」に同感、よくわかります。多角的な「発祥の地」考察は読み応えあり、考えさせられました。こういうところに歴史が覗いているんですね。先日テレビで“人工岬”という語を見かけました。日立か那珂湊あたりの話で「水死事故の多くがその近くで発生している」という。そこに起こる離岸流は秒速2メートル前後で、これはオリンピック選手でも抗しきれない速度とか──。
by knaito57 (2007-09-11 10:11) 

dendenmushi

@ほんとうに歴史というのはふしぎというか、おもしろいです。こうして、岬めぐりと称して、あちこちふらふらしているだけでも…。
その人工岬のことは知っています。那珂湊のへんも、まだ岬めぐり残っているんですよ。こんどご一緒しませんか?
もともとは、海岸の砂が波でさらわれてなくなるので、それを防ぐために人工の岬をつくったらしいのですが、自然に人間が手を加えて細工するのが、どれほどたいへんなことか…。
by dendenmushi (2007-09-12 08:43) 

dendenmushi

@2012年12月8日から9日にかけて、この「154 大潤ノ崎」の項目のアクセス数が急増しています。
いったいこれは、どういう理由によるものでしょうか。お心当たりの方のご教示をいただければ、ありがたいのですが…。
by dendenmushi (2012-12-09 08:55) 

長永

↑デイリーポータルZのバックナンバーリンクからでは無いのですか?
自分はそこから飛んできましたが。
by 長永 (2013-02-02 05:44) 

dendenmushi

@長永さん、ありがとうございました。
なるほど、これもまとめサイトですね。12月上旬のヤツは…これが原因だった。ニフティ、こんなことやってんですね…。

by dendenmushi (2013-02-02 12:02) 

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