125 石廊崎=賀茂郡南伊豆町石廊崎(静岡県)岬に行ってもなんにもないよ伊豆半島最南端 [岬めぐり]
岩がほぼ垂直に落ち込んでいる石廊崎の先端は、灯台の下を行く道が急に下り、崖に張り出した岩陰にばりついている小さな神社の祠の先に突き出た岩まで、人が歩けるようになっている。ここが、伊豆半島の最先端で、おそらく西側の岩場のほうが地理的にいえば最南端に位置しているのだろうが、人が入れるところではここが最も南の端っこなのだ。
しばらく、そこから海を見ていると、大きな船が、比較的よく通る。
太平洋の沿岸航路の船が沖を航行するときには、いくつかよく船から目立つ岬がある。それは灯台の灯がというのではなく、昼間のことである。もちろん、航路はあっても、実際に船がどのあたりを通るかは、船により異なるので、あくまで印象の範囲を出ないが、それには地理的な条件もあるだろう。
伊豆半島の場合は、ここが大きく飛び出しているため、沿岸を行く船はこの半島を回り込むような動きをすることになる。たいていの船は、そう極端に大きく回り込むことはしないので、その最南端の石廊崎には、比較的接近して沖を通過することになるのだ。
大昔に、セメントタンカーに便乗して、ここを通ったときにも、石廊崎は、きれいによく見えた。沖行く船から見ると、半島や大きな岬でも、小さな島のようにしか見えない。
白亜の灯台も、ここは岬自体が高い位置にあるので、そんなに高くなく、ずんぐりむっくり型である。今は無人なので、塀にかこまれて厳重に施錠された敷地内に入ることはできないが、ここもかつては灯台守がいたのだろう。平たいコンクリートの空き地は、その名残なのだろう。
「岬めぐり」というと、そこに行けば何かがあり、何かが待っているのだろうと、人は思うらしい。よく受ける「岬に行くと何があるんです?」という質問は、その答えイカンによっては自分も行ってもいいのだが…というニュアンスさえも感じられることがある。
だがしかし、岬に行っても多くの場合、ほとんど何もない。
その何もないということが尊くすばらしいことなのだが、常にどんなところでも、“そこへ行けば何かがある”ほうがよいことだと、日本中が勘違いをして狂奔した時代があった。ばかげたことに、そういう人たちは何があるか・何かの中身や意義などはたいして問題ではなく、なんでもいいからむりやりつくってしまえばいいのだと考えた。要するに、儲かりそうなことであれば、なんでもよかったのだ。
いま、岬めぐりの先々でよく出合うのは、バブル時代の変てこな廃墟、つわものども(いや、亡者どもかな)の夢の跡である。ここにくるときにも上の駐車場(駐車場だけは客が来て使い道があると見えて、箱の中でおじさんが一人番をしていた)からそのかつての園地を歩いて抜けてきたが、撤去されずに残っている建物や施設の一部が放擲され、錆びた“ジャングルパーク”の看板がむなしく立っていた。
写真のところは、石廊崎への通路に当たっているので、みんなが通るところで、建物はまだ利用価値があると思ってか、未練たっぷりに取り壊されずに残っている。その前のベンチで少しだけ見える名残りの海を見ながら休んでいると、中年の夫婦が通り掛かり、ガラスの戸の中を覗いて「まあ、大きなサボテンねえ。もったいないわねえ。」という。
それはまるで、可能ならば自分のウチへ持って帰ろうか、とでもいう風情で彼らが去った後、なんでこんなところにサボテンが?と、ガラス越しに見ると、まこと両腕で抱えても持ち上がりそうにはない、大きな丸いサボテンの鉢が、ガランドウの屋内にぽつんと取り残されたままになっていた。
34度36分9.16秒 138度50分43.82秒
東海地方(2007/06/08 再訪)
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