SSブログ

066 照ヶ崎=中郡大磯町大磯(神奈川県)戦後は遠くなりにけり [岬めぐり]

 「戦後」も遠くなった。大磯という町にきて、そう思う。ここは“ワンマン吉田の私邸”と“エリザベスサンダーホーム”があったところなのだ。吉田茂はここから国会へ出るために道路をつくらせたという話をはじめ、数々の伝説を残しながら、戦後日本の保守政治路線を敷いた人物だし、三菱財閥創設者の孫娘に当たる沢田美喜は、戦後社会の落としものともいえる混血児を育てるホームを起こした人だが、どちらもいまの若い人で知る人は少ない。
 知る人が少ないのはもうひとつ、“島崎藤村の墓(しかも土葬)がここの地福寺にある”ことだろうか。もっともこれは彼が最晩年をここで過ごしたことを、でんでんむしが知らなかっただけかもしれんな。ただぶらぶらと歩いていて、偶然に発見したこういうことは、あらかじめいろいろ下調べをして得た事前の知識よりうれしく思えるのは、もちろん地図と時刻表以外は見ないであとは足の向くままを旨とするでんでんむしの根拠のない偏見に過ぎない。

 照ヶ崎は、相模湾に面した鎌倉から真鶴まで約40キロの海岸線に、唯一ある岬である。しかし、そう大威張りできるほどはっきりした岬ではない。港の側にポコンとちょっと飛び出しているかなあ、という程度なので、その名がついていなければ、誰も岬とはカウントしないような場所である。港や防波堤やご多分にもれぬ道路工事などで、今では貧相で殺風景な海岸になってしまっているが、なにしろここが日本の海水浴場の第一号だったというのだ。

 そのことは高い護岸のそばに立つ犬養毅が揮毫した大きな石碑と、小さな標識によって知った。その功労者という“松本先生”も、さぞかし嘆かわしく思うことであろう。その贖罪のつもりか、やせ細った海岸のそばにはプールができていて、そういえばかの“ロングビーチ”も、この先に見える。

 富士山を望むこの長い砂浜が読人不詳の万葉集の歌に出てくる「余呂伎(よろぎ)の浜」であり、「こゆるぎ」の語源である。でんでんむしがこの岬めぐりで標準としているMapionの地図では、「小淘綾ノ浜」と表示(8000分の1)されているのだが、これはどうも「小淘陵」の間違いではないか。…と思ったのだが、念のために国土地理院の地図を見るとやはり「綾」となっている。これで「き」と読ませるらしい。
 西行の歌は百人一首の「なげけとて…」が有名だが、「心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」というのも好きである。この歌が詠まれた場所がなんとここなのだという。たくさんの碑で埋め尽くされているが、俳諧道場でもある鴫立庵は車の途切れることのない国道一号線に面してあり、鴫も寄りつかない。
 せっかくここまできたのだから、ついでに隣の二宮町まで足を伸ばし、駅の北側にある吾妻山まで登ってみる。

 富士山に似合うのは月見草だけではない。もう菜の花が満開でこれも似合っている。
 その先には“つぎはこっち”とばかり桜の枝がスタンバイしている。
 富士山には、なんでも似合うのだ。
 こういう景色を眺めていると、戦後の混乱を最小限に食い止めたという意味では、吉田内閣の役割は大きかったのかも知れん、とも思えてくる。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分21.48秒 139度18分58.13秒
66てるがさき-66.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2007/01/05 訪問)

@このブログは、ヘッダー、サイドバーをも含めた、全画面表示でみることを大前提としています。

にほんブログ村 その他趣味ブログ
その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:神奈川県
きた!みた!印(1)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

トラックバックの受付は締め切りました